血よりも強く 第1章「雨の都」
3* アイフォンゼーベルの司祭
短い通り雨が去ったあとは、古い石畳の路に小さな空色の水溜りができる。
敷石の隙間に溜まった雨水が、川が海へ流れ出るようにミクロの湖をそこかしこに作り出し、子供たちは雨靴を履いてわざわざその空色の湖を選んで歩いていった。薄い青空の下で水の跳ねる音と子供の笑い声が響き、街に鮮やかな春の彩を添える。
ここ、アイフォンゼーベル国では、一日に何度も雨が降る。
そうそう強い雨ばかり降る訳ではないが、顔を撫でるような小雨が繰り返し訪れ、人々は慣れたもので、傘を持ち歩くか或いは多少濡れても全く気にせず闊歩するのだ。
アイフォンゼーベルの首都である、国名と同じ名を持つ街アイフォンゼーベル――小アイフォンゼーベルとも呼ばれる事がある――は、大きな3つの区画から成り立っている。
中央に政府機関や各国大使館、図書館、そして高級レストラン等が集まるジューダ。西に宝飾・服飾・ブランド店で有名なグスタフ、東に劇場・映画館などが林立するソフィアがある。
それぞれ縦横に道がはりめぐらされ、その一つ一つに通りの名称が存在していることも、この街独自の興味深い特徴である。
そしてまた、世界最大の都市であるこの街には大小含めて数多くの教会が存在した。
一神教とし、貞節と清貧を信条とする国教のそれは、街の中で人々の重要なコミュニティとして成立している。ジューダの大統領府の隣にも、ソフィア下町の娼館街の間にも、何の違和感なく溶け込むようにして教会はそこに佇んでいる。
セルゲイ=ニコラエーヴィチ=アレクサンドル長老は、繁華街として名高いグスタフ3番街の端の、古くからある小規模の教会に駐在していた。
どちらかと言えば礼拝よりも観光客の方が多いような、そんな由緒ある教会で日々の儀式を執り行なうだけではなく、独自に様々な学問を研究するその聡明さと、人当たりの良さから、非常に評判の良い司祭だった。
彼は教会にいる時は毎日、訪問者の減る昼過ぎには礼拝堂に座って本を読みながらじっと待つのが習慣になっていた。
今も、外で水溜りとはしゃぐ子供たちの声に頬を緩ませ、政治学に関する書籍を読んでいる。本は、どれ程読んでも無駄になる事は決して無い。彼には、暇さえあれば何時でもあらゆる分野の本を読む癖があった。
――やがて、チリンチリンと鈴の音が近づいてきた。
彼の待ち人がやって来たのだ。
「郵便でーす」
バサ、と手紙の束を教会の中に放り込んだかと思うと、若い郵便屋は一度も止まることなく、そのまま自転車で走り去って行った。
鈴の音が再び遠くなる。
セルゲイは、この郵便屋の風のような潔さが気に入っていた。
軽い挨拶と共に手紙を放り投げ、そのまま次の目的地へと疾走するその様は、まるでこの街の通り雨のようだった。
ゆっくりと席を立ち、入り口に放置された手紙の束を拾う。
ゴムで留められた数枚の封書は、事務的なものばかりだった。
これもいつもの事。
予定通りの日課を済ませると、次の日課、手紙の返事を書く為に、彼は奥の控え室へと足を向けた。
そして、ふと窓の外の翳りだした日の光を見て、呟く。
「ああ、今度のは本格的な雨ですね」
+
…雨が降ってきた。
少女は、立ち止まって空を見上げる。
先ほどの小雨とは違う、機嫌の悪そうな雲の色。
ぱらぱらと水滴が顔に当たり視界を遮ろうとも、彼女は無感動な瞳で曇天を見つめていた。
腰の上まである長い亜麻色の髪が、湿気た風に吹かれてふわふわと左右に広がる。
少しの間そうやってぼんやりと空を見上げていたが、やがてゆっくりと周りの情景を見回す。前後に貫く大きな街道、右手に行くと時計職人の多いグスタフ3番街、左手に行くと紳士服の4番街。
……どちらでもいい。
どちらも自分の居場所ではないから、ほんとうはどこにも行かずじっとしているべきかもしれない。
そんなことを霞がかかったような頭で考えていたら、早足で行き交う人の体とぶつかり、その場で尻餅をついた。
段々と激しさを増す雨脚の中、地べたに座り込む年端もいかない少女に声もかけず、目にすら入らない様子で人は流れていく。少女は石畳に座ったまま、沢山の忙しそうな足が雨水の飛沫を自分に弾く様子を見て、不思議と悲しいともみじめだとも思わなかった。ただ、自分が此処には不要な者である事だけは判別がつく。
――自分の感情が麻痺している気がした。
どれくらいそうしていたか解らない。
雨を沢山吸った髪がべったりと頬にはりついたころ、彼女はふらふらと立ち上がって、再び当ても無く歩きはじめた。
+
土砂降りの雨の音を聞きながら、セルゲイは書き終えた手紙の返事を纏めた。
中には神学校時代の友人からのふざけた葉書もあった。
「ハイ! 相変わらず清くしてる? 早いとこいい子見つけなさいね」と、たったこの一文だけの、おそらく今は離れた町で同じく女性司祭をしている親友からの便り。どう返してやろうか、と苦笑いしながら、筆を走らせた。
「気難し屋の教会の嫁に来ようなどという酔狂な人がいるとでも?」
彼女自身の婚期の事や、年齢の事は決して揚げ足を取ってはならない。
恐らくその手紙が届いた瞬間、半日かけてアイフォンゼーベルまで自分を殴りに来るだろう。 ぶ厚い聖書の角で。
セルゲイは、彼女ほど聖職者らしくない聖職者を他に知らない。生臭坊主は大勢いるとしても、それとは確実に一線を画す清らかな者、それが彼女だった。化粧もちゃんとするし、服飾や食事、友人付き合いにも相当気を使う。普通の人間のように普通の生活、幸せを満喫しつつ、それでいて神に仕える彼女は、いつも眩しく思えた。
勿論、そんな俗っぽい彼女を快く思わない同業者など山ほどいる。そもそも女性が司祭になる事にさえ、異論を唱える人間が多いのだ。
だが、セルゲイは、彼女のような強さが欲しいといつも考えていた。強い風当たりの中、優雅に午後のティータイムを満喫する彼女は、その華奢な体の中におよそ想像もつかない程強大な意志を秘めているのだろう。
彼はいつも、歴史に名高い司祭ならどうするか、どのような言葉を紡ぐか、それを意識して生きていた。だから当然、周りからの評判も悪くない。
(けれど、それだけだ)
雨の音を聞きながら物思いに耽る。
(演じる……目指すことも聖職者には必要だ。だが、その先は? いつまで演じ続ける? いつになったら、これが本当の私に変化するのだろう?)
………
そのまま、様々に飛躍する思考に深く沈んでいると、夕刻が近づいている事に気付いた。
外は雨で、部屋は薄暗く、机の上を照らすだけのランプが心もとなく自分の影を大きく壁に浮かび上がらせている。
ああ、礼拝堂の明かりをつけなければ。
そして、椅子から立ち上がると、机の上のランプを消した。
影は薄暗い部屋の中へと溶けて消えた。
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