血よりも強く 第1章「雨の都」  4* 黄昏に煙る夕立




 元々の土地柄と、由緒ある建築物であることも相まって、セルゲイのいる教会には信者よりも他所からの観光客が訪れることが多い。
 観光客は非常に貪欲に好奇心を働かせ、休むことなく移動する。日が暮れたショッピング街や観光地よりも、食欲をそそる匂いを漂わせる飲食店街のほうが彼らの理に適っているのだ。従って、昼食時やこの夕食前の時間帯は教会には殆ど誰も来ない。
(それに、この雨だ)
 礼拝堂から開け放たれた入り口の扉をぼんやりと眺めながら、セルゲイは佇んでいた。
 明かりも点灯させたのでこれといって今特にすることもない。それに、あと小一時間もしないうちに扉を閉め、自分は帰宅する時刻がくる。だからただ、この国では珍しくもない突然の夕立の音に耳をすませていた。
 雨は嫌いではなかった。
 そういえば誰が言ったか、旧い級友だったか、雨は拍手の音に似ているから好きだと聞いた事がある。以前、試しにその音を発するものを想像で転換させてみて、彼は大層辟易した。鬱陶しいことこの上ない。何だか知らないが大勢が自分に喝采を送っている。級友はそれが心地良いと言った。
 雨は、雨であるから良いのではないか。
 そんなつまらない、自作自演のような賞賛の妄想に摩り替えて何が楽しいのだろう、と随分悩んだものだった。きっとあの級友は欲求不満だったに違いない。そう結論付けてその問題は自己解決した。
 雨は、そこに誰の意思も介在しないから良いのだ。
 平等で、無常で、無慈悲で、慈愛に満ちている。
 そんな事を取り留めもなく考えながら、特に何をするでもなく佇んでいた、その時――
 ふと、視線が扉の向こう、雨より手前で止まった。
 ここからではよく見えないが、誰かが入り口への短い階段に座っている。黄昏時の冷え込みにも関わらず、セルゲイと同じように雨を眺めているようだった。
(雨宿りなら、中に入ればいいのに)
 土砂降りの雨とその人物とを交互に見やり、そう、少し呆れた。



「風邪をひきますよ」
 突然上から降ってきた声に、その人物は慌てるでもなく、ゆっくりと声の主を見上げた。
 建物内からの淡い光が逆光となってよく見えないが、上から自分を見下ろしている男はとても背が高いように思えた。
「……あ」
 立ち上がると、自分の頭が彼の肩にすら届いていないことが分かる。
「怒られると思ったから……」
と小さく呟くと、男の顔のあたりのシルエットを見つめた。

 そこで初めて、室内からの明かりにその人物の顔が明らかになる。その時、セルゲイは少しだけ驚愕し、じっと見上げる瞳に視線を交差させた。
 それはまだ幼い少女だった。
 腰まである長い髪は雨に濡れて水滴が滴り、恐らく本来のそれと比べて暗い色調となっている。その上その相貌はこの国では殆ど見られない異国のつくりをしており、彼女がこの国の生粋の生まれではなさそうなことが想像出来る。
 そして何より、美しかった。
 彼女の年齢からすると、美しいというより愛らしいというほうが適切かもしれないが、兎に角、状況や容姿など全ての因子において彼女がセルゲイの興味を得るのには十分だった。
「怒る? 私が?」
 頭二つぶん下から不安そうに見つめる彼女に苦笑いしながら、セルゲイは持ってきたタオルを彼女に渡した。
 少女は吃驚したように目を白黒させながら、躊躇いがちに白いそれを受け取る。
「兎に角、中に入って体を暖めて下さい。お茶を出しましょう」
 セルゲイのその言葉にも彼女は手持ち無沙汰にタオルを握って黙りこむだけで、その瞳には目の前のこの男を信用すべきか否か、怯えに近い迷いの色が表れている。
 随分と、外界と自分の間に厚い壁がそびえ立っている様子だった。
 しかしやがて彼の服が司祭のものであることに気付くと、漸く小さく頷いて視線を教会の内奥に置いた。それを拒絶の解除と確認した司祭は、満足げに少し笑って小さな客人を神の家に招き入れた。



 予告通り控え室から紅茶を淹れてきた(この教会にもそれくらいの設備はある)セルゲイは、物珍しげに祭壇やステンドグラス、壁画へと忙しく動かす少女の視線と真っ向からぶつかった。
 その大きな瞳の濡れ鼠は肩にタオルを羽織り、しかしそれは長すぎる髪の水分を吸い取るには力不足である様で、体の水滴を拭き取る程度に留まっている。それでも体の冷えを抑えるのに多少は一役買っているだろう。
 観察している事を少女に気付かれないように注意しながら、ティーカップを彼女の座っている長椅子の横に置き、 更にその横に自分も腰掛ける。
「あの……ありがとう」
 少女はそう小さく呟いて、頭を少し傾斜させて辞儀をした。釣られてセルゲイも小さく頭を下げる。その言葉のイントネーションに僅かな訛りを見つけたが、心地の悪いものではなかった。
「あの……」
 しかし彼女はまだカップを取ろうとせずに、居心地悪そうに司祭と祭壇を見比べて、
「ここってものを食べて良いんですか?」
と不安げな表情のまま教会のあるじに尋ねた。
 ――聡明で礼儀を知っている子供だ。
 セルゲイは感心し、笑顔で「駄目です」と応える。
 半分予想通りの、半分意外なその回答に、少女は固まってしまった。何か別の生き物を見るような瞳で目の前の男を見つめる。
 司祭は構わず続けた。
「駄目ですが、神はそれほど小胆ではないと私は信じていますから」
 恐らく――いや、明らかに異教徒である少女はその言葉に暫く葛藤した後、自分を納得させるかのように一人頷いてカップを手に取った。そして赤茶色の液体を一口二口啜り、僅かに渋い顔をするのを見て、セルゲイは砂糖を入れなかった事を少しだけ後悔した。

「聞かない方が良いんでしょうか」
 苦味が好みで無かったとしても、体が暖を欲していた所為か否か、それでも紅茶を全部飲み干した少女に尋ねてみる。出来るだけ優しく、いつものように。
 少女は暫くその問いの意味と答えを探るように視線を彷徨わせ、そして頷いた。
「雨が弱くなったら出て行きます」
「結構です。ただ、風邪だけはひかないようにしてください。貴方に必要なのは暖かい部屋です」
 紅茶のお陰で体が少し温まったのか、少女は先程よりはいくらか緊張を解いて静かにその声を聞いていた。そして、手に持ったカップの底を見つめながら、「私に必要なのは」、小さく呟く。

「覚悟だけ」


 不思議な響きだった。
 二人きりの薄暗い礼拝堂に染み込むような小さな言葉。
 司祭は少女の横顔を見つめ、少女は視線を落としたまま、弱くなってきた雨音がこの静寂の空間と外界を遮断していた。



 夕立は黄昏と共に去る気配だった。



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