血よりも強く 第1章「雨の都」  7* 流浪の民




 自分は何をしているんだろう。
 夕暮れ前、早々に教会に鍵をかけて帰路についたセルゲイは自問していた。昼前から降っていた雨もつい先ほど上がり、水溜りは夕焼けの町並みを映し出している。
 雨と言えば、どうしても昨日の事が思い出されてしまう。
 ずぶ濡れの家出娘を家に上げるなど、普段の冷静な自分なら有り得ない事だった。こんな事をしたら、近所の噂好きの主婦達になにを言われるかわからないのに。只でさえ都心の古い屋敷に住む若い聖職者、というだけで彼女達のお喋りの恰好の題材となっているのだ。
 その上、彼はアイフォンゼーベル出身ではない、異国人だった。

 セルゲイはアイフォンの遥か北に位置する大国、旧キセー帝国の出身であり、かの国が戦争に敗北し急激な変貌を遂げるのと時を前後して移住してきた。
 10年前にキセー帝国は消滅している。
 現在は「アッシムカ国」と名を変え、他国に併合され、その支配を強く受けながら別の国家として変化を続けているのだ。
(故郷を失くした民か…そんなの沢山居ますけどね)
 右手に抱えた紙袋を持ちなおして、小道を歩きながら思う。
 国が危なくなると、多くのキセー人が世界に散ろうと奔走した。その頃には国外に出奔することも、入国することも至難の技となっていたが、それでも人々は幸福を求めて外の世界に流出していった。
 しかし、今となっては恐らくそのうちの殆どのキセー人が望郷の念を抱いているだろう。
 そしてまた、変化してしまった故郷に自分の居場所が無いことを恐れている。
 そのシチュエーションこそ、アイフォンゼーベルに限らず世界の世相として同情と関心を煽るいい話の種になっているのだ。
(傍から見たら、私達は憐れな流浪民なのだろう)
 長老は自虐的な微笑を浮かべて、赤く染まった空を見上げた。
 キセー人だというだけで彼に軽蔑の目を向ける人間もいる。あの戦乱と貧乏が代名詞の国の、難民だろうと。
 実際は難民でも何でもないのだが、そんなことは彼らにとって重要では無いらしい。
(彼女はどうだろう?)
 あの家出娘も恐らく異国の人間だ。
 彼女もまたその出生や容姿からこの国でいわれの無い差別を受けてきたのだろうか。
 それとも、差別をする側なのだろうか。

 どちらでもいい。
 彼は紙袋を左手に持ち替えた。
 中には普段より多めの食材と、いつもは購入しない菓子類が入っている。
 どちらであろうと、自分が言うべき言葉は決まっている。特に差し当たっての煩わしい問題でもない。
 セルゲイはそこで一旦思考を中断させ、今度は今晩の夕食のメニューについて考え始めた。材料は二人分購入したが、勿論彼女が既に家を出てしまっている可能性も含めて。



 玄関を開けると、家の中は真っ暗だった。
 既に赤から紫紺へと姿を変えた空からの僅かな光が、おぼろげに室内の調度品の輪郭を浮かび上がらせている。
「ただいま」
 おざなりの挨拶をしてみるが、声は闇に吸いこまれるばかりで返答がない。
 やはり少女は出て行ってしまったようだ。
 セルゲイは手探りで壁の突起に触れると、小さなレバーをバチンと上に上げた。途端、ホールに温かい光が溢れる。この家の数ヶ所の光源は最新の電気式のものにしているから、いちいち火を灯さずに済んでとても重宝していた。
 取り敢えず買ってきたものを置くためにキッチンに向かおうとした時、ふと彼は二階を見上げた。

 紙袋を階段の下に置いて、じっと闇を見つめる。
 そのまま一歩ずつ、ゆっくりと階段を昇り二階へ向かう。
 昇りきると、ホールの光も敵わない暗闇が満ちていた。黄昏時の闇は夜の闇と比べて目が眩むような感覚がある。長い廊下の両側にいくつもの扉があり、その部屋のうち半分以上は殆ど使っておらず、たまに掃除をする程度のものだった。
 その暗闇の中、彼は迷うことなく進み、一番奥の大きな扉に手をかけた。
 鍵はかかっていない。
 ノブを軽く引くとドアは音も無く開き、彼は体を半分中に入れてじっと目をこらす。
「……」
 ベッドが盛り上がっている。それは確かに小さな人間の形をして。
 それを見た時、自分でも説明不能な小さな安堵が生まれた気がして、彼は動揺した。
(何だ?)
  どこか懐かしい感覚。
 子供の頃に一度だけ感じたような…。

 その感情の波紋の理由も解らないまま、敢えてそれを打ち消すように室内に入り、卓上ランプを灯す。淡い橙色の光を背にベッドのほうへ向き直ると、布団から覗いた琥珀色の目がこちらを見ていた。
 セルゲイは布団に丸まっている彼女を見下ろして苦笑してみせる。
「寝るにはまだ早くありませんか?それと、ここは私の部屋なので他の客室を使って頂けると有難いのですが」
 そう、ここはセルゲイの寝室だった。少女はまだ彼の布団に潜ったまま彼を見つめ、
「明かりの点け方がわからなかった」
とくぐもった声で言った。
 その一見質問と噛み合わない回答に、セルゲイは一瞬考えこんだが、すぐににやりと笑って彼女に顔を近付ける。
 矢張り彼女はそれに合わせて少し身を引いたが、構わず言う。
「怖かったんですね」
 その言葉に少女の目に明らかな動揺が走った。 図星のようだ。
 恐らくこの広い家をウロウロしているうちに雨が降ってきて空も暗くなり、だが明かりを点けようにも電気式なので触った事が無く点けられない。どこか狭い部屋に入って青年が帰って来るのを待とうとしたが、どの部屋も生活感がなく一層恐怖を煽るものだったので、仕方なく人の気配の染みついたこの寝室で待機することにしたのだろう。

 容易に想像できるその子供のようなプロセスに、セルゲイは笑うしかなかった。
 だが彼女は朝から彼に笑われ通しなのが全く気に入らないらしく、顔を真っ赤にして布団を頭までかぶってしまった。この年頃特有のプライドの高さと精神のアンバランスさが例外無く少女にも影響を及ぼしているらしい。
 悪意は無くとも、余り笑ってしまっては可哀想だと思い直したセルゲイは、「夕食の仕度が出来たら呼びますから」と言って部屋を去ることにした。
 だが、どうしても声は笑ってしまう。
 今まで彼の周りにはこんな人間はいなかったのだから仕方が無い。こんな、大人のような顔を見せたかと思えば、まるで子供のように無防備で無垢な行動をする人間は。

 その時、昨日から気にかかっていたことを思い出し、部屋を出る前に足を止めた。
 少女の機嫌をこれ以上損ねないように注意しながら尋ねる。
「貴方、名前は?」

「雛菊!」

 少女は布団をかぶったまま、アイフォンゼーベルには決して無い名前を短く叫ぶ。
 もうとっくに怒っていたらしい布団の中からの声に、セルゲイは先程の不可思議な感情について天啓の様に閃いた事があった。
「ああ、子犬だ」
「なに!?」
「いえ、なんでも」
 思わず漏れた言葉に過剰に反応した少女――ヒナギクを宥めるように微笑む。
 そうだ、子犬だ。
 彼女は自分が故郷で幼い頃に拾った、子犬に似ているのだ。
 その色形はもう忘れてしまった。ただ両手に抱えて家まで持って帰ったことは覚えている。
 自分が目を離した隙に道路に飛び出してしまわないか、帰路につくたび戦々恐々と足早になったあの日々。
 その時キセーは確か涼しい夏だった。


 セルゲイは寝室を出ると、詰襟のボタンを外しながら階下のキッチンへ向かった。
 先程までの笑みは消え、怒っているような、笑っているような、そんな無表情になっていた。



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