血よりも強く 第2章「異邦者は笑う」  13* 休日と食器




 今日の天気は朝から芳しくない。常に上空には厚く重い雲が立ち込め、時に強く、時に優しく雨を地上に降り注ぐ。今日は休みだが、これでは余り外に行こうという気が起きない。セルゲイは書斎で山のように積まれた本の整理をしながら、窓の外に目をやった。
 初めてこの国に来た時は、その余りの雨の多さに閉口したものだ。
 その上ここは北国のキセー帝国に比べれば冬など無いに等しいほど暖かいと感じる国で、慣れるまで随分時間がかかった。逆に南国の黎花国から来た者にとっては、年中冬のような気候に感じられたのではないだろうか。
 そう考えると、一度彼女をキセーに……アッシムカ国に連れて行ってみたいと思う。頭の天辺まで積もる雪を見せてみたい。今なら10年前と比べて、入国も出国も容易になっているから、行こうと思えば行けるだろう。
 しかし――彼には行けない理由があった。
 そして特に行きたいとは思わなかった。もう、キセー帝国は無い。
 10年前に侵略され、政府は解体され、皇帝も追放され、アッシムカ国と名を変え全てが変わってしまった故郷には、行った所で余計に望郷の念が増すばかりだろう。今更ながら、キセーが消滅する直前に国を出た自分は、真に流浪の民であることに気付かされる。
(それに……)
 ぱらぱらと厚い本を捲り、内容を確認すると、それを小山に分けた一群の上に置く。古い智慧の匂いが鼻腔をくすぐった。
(果たさなければならない、約束がある)

 その時、階下から大きな破壊音が聞こえて、彼は咄嗟に腰を浮かせた。
 そして一瞬の内に思考を巡らせると、「またか」と苦笑して部屋を出た。


 キッチンに行くと、果たして、雛菊が床を見つめて右往左往していた。二階から降りてきた青年の姿を確認すると、泣き出しそうな顔をして口の中で何かを言った。
 床の上には、3,4枚の割れた平皿の残骸が散らばっている。
 その破片の模様を一瞥して、
「平気ですよ。安物ですから」
と微笑んで見せると、少女は小さく息をついてから、「ごめんなさい」と呟いた。
 セルゲイは頭の隅でこの4日間に割れた皿の数を計算してみた。指折り数えるのも、そろそろ両手では足りなくなってきている。尤もそれらは確かに安物で、一枚の値段は500かそこらの代物なのだが、それでも一人暮らしだった為にそう多く備蓄してはいない。このペースでコンスタントに割れていくと、仕舞いには家の中に皿が無くなることは想像に難くない。
 しかし彼には、「やめてくれ」の一言がどうしても言えなかった。
「あの、私、埃かぶってたお皿を洗おうとして、それで……」
「ああ、なるほど」
 昨日は夕食のシチューを入れようとして手を滑らせて、一昨日は洗ってる最中に手を滑らせたんでしたっけ。
 彼は笑顔を崩さずに皿と雛菊に交互に視線をやる。これが悪意でないのだから、ある種の才能だとしか思えない。そして善意でやっている事だからこそ、無碍に止めろとも言えないのだ。
 彼女を買ってから4日が経つ。
 その間に、セルゲイは全ての必要と思われる手続きを済ませた。
 まず、あの後雛菊を自宅に送ってから、娼館に出向いて契約書を書き800万を支払った。店の名前は最早覚えてはいない。セルゲイの教会や自宅があるグスタフ通りから、街の中央を縦走するジューダ通りを越えた更に西のソフィア通りの娼館街の一角に、その建物は悠然と佇んでいた。赤茶色の煉瓦作りの壁に、黒い屋根が雨に濡れていた。陰鬱な天気にも関わらず、客らしき男達が悠々と出入りしている様を見て、セルゲイは少し神妙な心持になった。今更ながらあの少女の運命に大きく関わってしまったことを強く自覚した。
 しかし不思議と追懐する気にはならない。
 上のオーナーとやらは不在だったので、例の猫背の中年の男を呼び出して契約を履行した。セルゲイは終始にこやかな顔を作っていたのに、彼は何故か酷く怯えた様子だった。彼が俯いて札束を数えるのを眺めながら、ふとこの現場を誰かに目撃されたら面倒かもしれない、と考えた。曲りなりにも自分は聖職者なのだから。札を数え終えても、男は最後までセルゲイの目を見ようとはしなかった。
 そしてすぐに雛菊の叔父の家を一人で訪ね、一部始終を伝えて、雛菊を引き取る事をレンドラに伝えた。彼は驚いたように「どういうつもりだ」と聞いてきた。
 「貴方が出来なかった事をするだけです」
 とセルゲイが言うと、彼は俯き、少し体を震わせて、「よろしく頼む」とだけ呟いた。やはり彼も、姪を売る事は心苦しかったらしい。玄関から薄暗い家の中を覗くと、部屋の中にいくらかの酒瓶が転がっているのが見えた。貧窮に陥ったのは本当に雛菊母子の所為だけなのか、と聞いてみたかったが、もう関係が無い事だったので黙っておいた。雛菊を連れて来なくて正解だったと思う。
 それから更に次の日、例の娼館のオーナーらしき人物が怒鳴り込んできた。自分抜きに重大な商品の売買契約が履行されたのがどうしても腹に据えかねたらしい。なんせ血統書でもつきそうな血筋の娘をみすみす逃してしまったのだから。彼はあわよくば契約を白紙にして、再び雛菊をセルゲイの元から取り返そうとも企んでいたのだが――。
 団子鼻に汗を浮べ、憤怒の形相で迫るオーナーに、司祭が事も無げに
「彼女の借金を立て替えただけですよ。問題があるなら、警察に行きましょうか?」
といつもの笑顔で告げると、オーナーは「くそったれ!」だか「××野郎!」だか、そんな罵詈雑言を吐き捨てて退散してしまった。
「××だって」
 控え室から礼拝堂へ繋がるドアの隙間からこちらの様子を見ていた雛菊に、肩を竦めて笑ってみせると、彼女は困惑したように微笑んでから、「××って?」と聞き返し、司祭を大層困らせた。

 セルゲイの感覚では「引き取った」ことになるのだが、結果としては彼が雛菊の借金を立て替えたと見做す事が出来る。雛菊にとっては自分の借金の債権者が代わっただけで、いつか返済しなければならないという気負いは変わらないようだった。例え彼が要らない、と言っていても。
「私、なんでもお手伝いします!」
 と、今は働き口も無いから、取り敢えずは家事をこなそうと意気込む少女に、
「物を壊して寧ろ負債が増えるのでやめてください」
等と言う勇気は彼には無かった。

 皿だったモノの残骸を踏まないように跨いで、棚にしまってある皿の数を確認すると、矢張りどう考えても買い足さなければならない事が分かる。セルゲイは隣から一緒になって覗き込んでくる少女を見やると、「買ってきましょうか」と言った。雛菊は恐縮しているのか、体を固まらせて何とも言えない顔で青年を凝視する。
 これほど至近距離でこの琥珀の目を見るのは初めてだったので、青年は次の言葉を飲み込んでその色を熟視した。まだ昼だと言う事もあり、キッチンの光源は点けられておらず、窓から差し込む雨の光だけが僅かに部屋を照らしている。その中でも、雛菊の瞳は不思議な金色の光を湛えているように思えた。
 その時初めて、焔蓮華の人間が現人神として崇められている事に納得した。
 この娘には、不思議な神威が宿っている気がする。尤も、観察している限りでは頑固で幼稚で単純で四日で二桁近くの皿を割る只の不器用な少女なのだが。
 暫くお互い見つめ合っていたが、
「いい天気ですし、散歩がてら」
「雨だよ」
「……いい傘日和ですし」
妙な会話をして、結局店に皿を買いに行く事にした。
 実際、セルゲイは朝から本の整理をしていたのでそろそろ新鮮な空気を吸いたいと思っていた所なのだ。雛菊は雛菊で、先程の悄憂とした顔はどこへやら、うきうきと長い髪を編みなおして外出の準備をしている。
 それを横目で見て、司祭は先程感じた神威は気のせいだと思い直した。


 水がさらさらと頭上の傘を滑り落ちてゆく。雨は余り好きでは無いが、こういう小雨なら優しくていいな、と傘の外に手を出しながら雛菊は一人頷いた。掌を天に向けて、杓子のように形作るが、確かに雨が当たる感覚はあるのにそこに水溜まりは出来ない。彼女は手いっぱいの雨水を諦め、再び腕を傘の下に戻した。
 周りを見渡すと、例の大きな公園が車道の向こう側に見えて、ちょっと眉を顰めた。一人でここで夜を明かした晩は、思い出したくもないくらいに恐ろしかったのだ。明かりも無く、頭上で鳥の声が聞こえ、恐怖の所為で余り眠れず、朝焼けが世界を染め始めると、心細さと安堵の所為で涙が出そうになった。太陽が完全に出てからいよいよ放心し、その時にセルゲイが現れたのだ。
 そういえば、教会以外に二人で外出するのは初めてだった。
 傘の所為で隣を歩く男の顔は全く見えないが、つい先程家を出た時に見たその相貌を思い出してみた。正確には何色と言えばいいのか分からないが、いつも香油で軽く後ろに流していたその白金の髪は今日は額に落ちていた。普段の黒い司祭服も着ていないし、教会にいる時に比べて随分と幼く見える。
 それでも、いつもの優しい静かな笑顔は変わらなかった。
 最初は作っているのかと思ったが、ここ4日寝食を共にしてみると、それは無理に演じているものでは無いと思うようになった。この人は本当に根から優しいのかもしれない。それとも、アッシムカ人というのは皆こうなのだろうか。
 でも――。
 雛菊は小雨に煙る石畳の道の真っ直ぐ先を見つめて、何度か瞬きをした。
 何か、違和感がある。

(わ、駄目だ)
 慌てて傘の柄を両手で握り直す。
 恩人を疑うのは恥ずかしい事だ。雛菊は一人で顔をほのかに紅潮させて、今しがた頭に浮かんだ言葉を打ち消す為に、思わず「ねえ」と声を出した。
「何ですか?」
 予想通りの落ち着いた低い声が傘の向こう側から返ってくる。少女は適当な言葉を探して目まぐるしく思考を飛躍させた。
「どこに行くんですか?」
 そして出た質問がこれだ。問題は無いが――自分の単純さに少し腹が立つ。
「グスタフの3番街ですよ。教会のある所です」
「え、教会に行くんですか? お皿は?」
「その、もう少し先です。時計屋や家具屋が沢山ある場所がありますから」
「ああ……なあんだ」
 目的地が毎日行っている辺りだと分かって、雛菊は少し頬を膨らませた。どうりで先程から普段と同じ道を歩いていると思った。
(折角の休日だから、もう少し珍しい所に行きたいなあ)
 少女は自分が外出する理由を作った事をすっかり忘れている。
 「ところで、」再び声が上から降ってきた。
「敬語、やめませんか」
 その声音は少し笑いを含んでいるように聞こえる。雛菊は今度こそ眉を顰めて彼の顔――の手前で二人を隔てる傘の内側を見つめた。
「セルゲーさんがやめるんなら、私もやめます」
 敬語を使うのは苦痛ではないが、窮屈と言えば窮屈だ。しかし彼は目上だし、そして彼自身が誰にでも丁寧な敬語を使うから、彼女もそれに従う形で使っているのだ。セルゲイが敬語を使って、雛菊がフランクな言葉を使うのも理屈に合わない。
 しかしセルゲイはその言葉に笑ったようだった。
「私のはもう癖ですから、気にしないでください」
「でも――」
「それに」
 突然、セルゲイが足を止めた。雛菊も慌てて立ち止まる。辺りを見渡すと、どうやらいつの間にか目的に着いたようだった。目の前の店には、水滴が流れるショウウィンドウ越しに、綺麗な模様の陶器の食器が並んでいるのが見える。
 雛菊は傘を傾け、隣で陶器を眺めている青年の顔をはじめて見た。セルゲイはショウウィンドウから少女へと視線を流して、
「こういう話し方の方が、聖職者らしいでしょう?」
と、悪戯っぽく笑った。



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