血よりも強く 第2章「異邦者は笑う」  14* 氷と炎




 真っ白い滑らかな地肌に淡く濃く桃色や空色、藍色、草色の模様が描かれている。それは大体が草花を模したものだったが、凝ったものになると神話を題材にしたものもあった。あまりに精巧で美しい柄に思わず見惚れると、すぐに視界の隅に値札が目に入ってくる。少女はそこに書かれた丸の数を数えて、目を大きく瞬かせると、静かに後ろに下がった。
 すると、すぐに背中に何かが当たった。その感触に驚いて振り向くと、セルゲイが彼女の背中を手で抑えて見下ろしていた。
 店はそこそこの広さがあったが、所狭しと割れ物を陳列している。注意して歩かないと、不意に商品にぶつかって壊してしまう危険があった。
 不思議そうな顔で見上げてくる雛菊を見て、セルゲイはどうしてこの娘があんなに皿を割るのが得意か、理解出来た気がした。
「周りに気を付けてください」
 そこで漸く彼の言いたい事が解ったのか、少女は神妙な顔でこっくりと頷く。
「お皿って高いんで……のね」
 慣れない言葉遣いを努力して紡ぎだす。それから顔を商品に戻して、姿勢を直すと慎重に店の奥へと歩いて行った。
 確かに陶磁器は高い物は高いが、下を見ればいくらでも安いものはある。彼女は高価な物だけを選んで見ていたようだった。そろそろと必要以上に小さな動きで前に進む雛菊の後姿を見ながら、セルゲイは陳列棚の下部に積まれている商品を手に取った。
 簡素なつくりで、心持程度に花の模様が描かれている平皿。よく観察するとほんの僅かに歪みを持った円だった。だが、これで十分事足りる。値段も手頃だ。その皿と、もう一種類違うサイズのものを合わせて10枚持つと、彼は店の隅で座っている初老の女性の元へと行った。
「いらっしゃい。贈り物用?」
「まさか!」
「でしょうねえ」
 店主は人の良さそうな笑顔で安物の皿を受け取り、一枚ずつ丁寧に包装紙で包んでいく。セルゲイはその作業に見入っていたが、おもむろに視線を店内に巡らせると、奥で何かを熱心に見ている雛菊が目に入った。色とりどりの食器や花瓶、置物に囲まれて、ひっそりと最奥の壁に佇んでいるガラスケースの棚を見ているようだった。

「雛菊」
「わっ」
 突然かけられた声に、少女はびくりと体を震わせて振り返る。余程夢中で見入っていたようで、背後にセルゲイがやって来た事にも気付かなかった。
 彼がガラスケースを覗くと、雛菊ももう一度視線を元に戻す。ガラスの向こうに置かれていたのは、陶磁器で出来た小さな置時計だった。その置時計の円柱の上部は美しい草花の装飾が施された時計部分で、下部は小さな踊り子達が花の中で踊っているミニチュア部分。確かに雛菊が見惚れるのも理解出来るような、精巧で美しいものだった。
「欲しいんですか」
「え? ううん、平気! いらないよ」
 雛菊は彼の問いに慌てて首を振り、頬を紅潮させて笑う。何が平気なのだろう、とセルゲイは少女と置時計を交互に見つめた。本当は欲しいに違いないのに。
「もうお終い?」
 少女は敢えて話題を転換するように、妙に明るい声で雑多に商品が置かれた店を見回した。それに合わせてセルゲイが振り返ると、店主がにこやかな顔で紙袋を持ってこちらを見ていた。それを一瞥して、「終わりです」と首肯する。
「じゃあ帰ろ。どこかでご飯食べたいなあ」
 くるりとガラスケースに背を向けて、店主から紙袋を受け取ると、雛菊はさっさと店を出て行こうとする。扉のノブに手をかけた時、
「本当にいいんですか」
「全然いい」
セルゲイの問いに短く答えると、そのままドアをすり抜けて外へ出て行ってしまった。青年はガラスケースの前に佇んだまま、暫く時計を見つめる。そして次に「遠慮しなくていいのに」と呟くのを耳ざとく聞いた店主が、いい子なのよ、と言って笑った。



 そういえば、色々と聞きたい事があったんだ。
 紅茶に砂糖を山盛り3杯入れたところで、雛菊はふと手を止めて正面に座っているセルゲイを見た。彼は同じく紅茶のカップに手をかけつつ、何故か妙に嫌そうな顔をして雛菊の手元を凝視している。
「たくさん聞きたい事があるんだけど、聞いていい?」
「いいですよ」
 小さなカフェなので客も他におらず、雨の音と二人の声だけが響く。
 そこでもう一杯砂糖を入れると、セルゲイは目を逸らして小雨が降り続く窓の外を見た。
「セルゲーって、どうしてアッシムカからアイフォンゼーベルに来たの?」
 黎花生まれの彼女には、どうしてもアイフォン語の発音に癖が出来る。気を抜くとセルゲ『イ』が間延びしてしまうようだった。
 しこたま砂糖を入れた紅茶を美味しそうに飲む彼女に目を戻すと、青年は少し目を泳がせて答えに詰まった。
「何と説明すればいいのかな……。10年前の侵略戦争の事は知っていますか?」
「戦争? キセー帝国がアッシムカに変わった時の事だよね。ゾ……ゾル……」
 少女は眉を寄せて喉まで出掛かった単語を思い出そうと努力する。だが、北の帝国を滅ぼした大国の名前はどうしても出て来なかった。相手はその奮闘する様子に少し笑って、
「ゾルドバス国。それがキセー帝国に侵略し始めてから、国力に劣るキセーはどんどん追いやられていったんです。戦争が終結する直前には貧窮極まり、多くの人間が国外に出て行きました」
「セルゲーもその一人?」
 あくまで純粋な、好奇心と遠慮に満ちた瞳で雛菊が尋ねる。
 青年は少し苦笑いを浮かべると、「そんなものです」と呟いた。
「父がこちらに大きな館を持っていたのでね。それを守るという名目の元に、私をなんとかこちらに送り出したんです。そして私は、アッシムカにいる家族が来るまで、ずっとここで待っているんです」
 雛菊はそのいつもの静かな微笑を見て、はっと瞳を瞬いた。飲むのを忘れた紅茶の湯気が宙に広がっては溶けて消える。セルゲイは何の感情も見せてはいない。だが――

 自分と同じだと、感じた。


  +


 ソフィアの表通りを歩きながら、男は肩を怒らせて風を切っていた。もうそろそろ夕暮れだというのに、朝からの小雨は一向に止む気配はない。腹が立つ。向かいから歩いてくる幸せそうなカップルも、道を堂々と走ってゆく四輪自動車も、高級レストランの看板も。全てが気に食わなかった。
 この焦慮の原因は分かっている。ここ数日、オーナーから延々と嫌味と皮肉と怒声を聞かされているからだ。
 口を開けば「この愚図」だの「役立たず」だの「××野郎」だのと、自分を責めたてる。彼があの少女の買値は700万だが、売値は800万なので、100万の儲けが労せず出たと言っても、一向に聞く耳を持たない。
「この先ずっと働かせていれば、その100倍の儲けだって出たんだぞ」
 というのが彼の常套句だ。皮算用だと毒づきたくても、決して口には出せない。ただ項垂れて嵐が過ぎ去るのを待つしかなかった。
(あいつは、あの長老の目を見てないからそんな事が言えるんだ)
 男は濡れた頭を荒っぽくひと撫ですると、裏通りへの脇道へ入った。傘は大分前に腹立ち紛れに車道へ放り投げた。
(あの男は人間じゃない。聖者の皮を被った、化物だ――)
 足早に水溜りを蹴り上げながら、そう心の中で断言すると、男は口を歪めた。少女を買った司祭へと責任を転嫁させようと必死で、どんどん過大な評価へと変わっていく。だが、そうでもしないと、このやり場のない怒りやストレスは消えそうになかった。
 道はすでに人一人が横たわれば一杯になる幅へと変わり、人影も無い。両側を挟む高い建物の壁にはレストラン群の裏口ばかりが並んでいる。芳ばしい香りがあちこちから漂ってくるものの、塵箱がそこらに置かれている汚い小道を見ていると、どうにも情けない気持ちになって仕方がない。その上これからまたあのオーナーの顔を見るかと思うと、益々気が滅入ってくる――。
 手近にあった塵箱を蹴り上げようかと思ったその時、唐突に背後から声をかけられた。

「おじさん、ねえ、アンタ娼館のおじさんでしょ」
 驚いて振り返る。歩いている自分の後ろに人がいるとは全く思わなかった。
 「誰だ」と口にしようとして、その声をかけてきた人物を見、男は絶句した。
 全身を黒い服で包み、赤い傘をさした青年が数歩先でじっと自分を見つめている。青く染めた髪の色は暗く、赤茶色の瞳は深いルビーのような輝きを持っていた。そして異様な程際立つ、その外貌。
(これは、人間か――?)
 余りにも美しい。美しすぎて、男は奇妙な違和感を覚えた。
「ああ、やっぱり。アンタ担当だったよね。奇遇だな、さっき通りで見かけてもしやと思って追いかけて来たんだよ」
 青年は振り向いた男の顔を確認すると、彼の心情も構わず、無邪気な顔で笑う。
 男は青年に見惚れている自分に気づくと、気を取り直すように空咳をした。
「担当たぁ何のことだ? 俺はお前を知らない」
「知らないだろうね。あの子を尾行してる所を気付かれないように尾行してたんだから」
 と、青髪の青年。
「何……?」
 男は眉を顰め、相手の顔を注視する。笑顔の青年の言っている事が飲み込めない。
 尾行――あの子? 担当? もしかして焔蓮華の娘のことか?
「尾行してたって、俺をか? なんでまた」
「いいからいいから。それより、あの金色の眼の子はいつ頃店に出られそうなの?」
 青年は傘を持っていない方の手をポケットに入れて、体の重心を移動させた。あくまで気楽な、まるで昔ながらの友人に世間話をしているような態度だった。その気さくな口調に、見知らぬ人間にも関わらず、男は肩の力を抜いて気を許してしまう。
 金色の眼の子。青年が示している人間は、たった一人しかいない。それも、男にとっては忌々しい思いしか残さなかった少女。それを確信した男は、苦々しい顔で青年を睨めつけ、吐き捨てるように言った。
「焔蓮華の娘はもう来ない。売れちまったんだよ」
「……は?」
 途端、青年の相好から笑みが消えた。
 怖気がたつほどの美貌はそのままで、無表情に男の顔を凝視する。
 男は苛立ちも忘れ、彼の突然の表情の変化に呆気にとられ、自然と肌が粟立つのを感じた。赤い傘の所為で青年の顔には赤暗い影が落ち、その中の赤茶色の瞳が真紅に燃えているような錯覚を覚える。空気がぴりぴりと肌を刺し始めた。
「それは、どういう事? 金眼の子は娼婦にならないって事?」
 そう低い声で唸る様に尋ねる青年に首肯する代わりに、男は喉を鳴らした。青年のポケットに入っていた手は、何時の間にか再び外に出て握り拳を作っている。
 徐々に湧き上がる怒りを内包しているその瞳が、恐ろしかった。蛇に睨まれた蛙のように、体を動かすどころか、声を出すことも、その瞳から視線を外す事さえも出来ない。このまま青年が激情にかられたら、自分もただでは済まないだろうという本能に近い直感に、男は慄いた。
 あの司祭が氷のような化物だとすれば、この目の前の青年は炎のような悪魔だ。一片の関心も持たれないことの恐怖と、怒りに任せて食い千切られそうな恐怖。一体どちらがより恐ろしいかと、混乱した頭で考えた。
 そんな男を尻目に、青年は無表情だった顔を怒りに歪め、落ち着きを失い、わなわなと肩を震わせ、矢庭に近くに転がっていた塵箱を蹴り上げた。それに合わせて男はびくりと体を震わせる。ガラン、と大きな音を立てて塵箱が数メートル先に転がって行った。
「ああ、畜生! また予定が狂っちまうじゃねえか、どうしてくれるんだ! 誰が買った? 誰がそんな余計な事をしてくれたんだ?」
 ずいと一歩踏み出し、男と距離を詰める。男は――ああ、前にもこんな事があった――と、奇妙な既視感に身震いして目の前に迫った燃えるような瞳を凝視した。ちろちろと、炎が燃えているような目。あの司祭とは全く逆の瞳だ。
「言えよ!!」
 突然胸倉を掴まれ首を締め付けられる。青年の細身の体からは予測出来ないほどの強い力だった。
「グスタフ通りの……3番街の、司祭……」
「司祭? 聖職者が買ったのか?」
 青年は目を見開き呟くと、舌打ちをしてから蛙のように喘ぐ男を掴んでいた手を離す。
「余計な……余計なことを……。また国に帰るのが遅れるのか……邪魔しやがって」
 憎しみに満ちた顔で転がった塵箱を睨みつつ、ぶつぶつと分からない事を呟く青年に、男は呆然としたまま、「あんた誰だ」と裏返る声で尋ねた。恐怖が、正常な判断力を奪っていた。
「うるさい。黙れ」
 青年は男を見向きもせず、宙を凝視したまま親指の爪を強く噛み締める。その声音には殺意がこもっていた。
 男はそのまま、踵を返して行ってしまえば良かったのだ。オーナーの怒声が響くあの娼館へと、戻れば良かったのだ。しかし臆病な男は、その臆病さ故に、藪にいる蛇を起こすような真似を――してしまった。
 暴力だけは勘弁してもらいたい。そう単純に考え、何とか怒りに震える青年の機嫌を取ろうと、いつもの追従笑いを無理矢理強張った顔に浮かべて、言った。
「あんた、予約してた客か? すまない、予定が狂っちまってね。でもウチには他にもいい子が沢山いるし、良かったら今度」
 そこまで言った時、青年が爪を噛むのを止めた。そしてその手がふ、と消えたかと思うと――

「黙れって言ってるんだ」

 青年が突然横転した。赤い傘を顔を覆うようにして、こちらに向けている。その向こうに灰色の空が見えた。男は唐突な出来事に目をむいて、ただ赤い傘を凝視する。
 何だ? 何故急に倒れたんだ? いや、倒れてるのは

 俺だ。


 柄を回し、赤い傘をくるりと一回転させて雨の飛沫を放つと、青年は元来た道を引き返す。小雨が風に吹かれて顔にさらさらと当たったが、特に気にならない。寧ろその微かな水滴によって、怒りは静かに収まっていった。
「オレ達が欲しいのは、金眼の子だけだよ」
 歩きながら小さく呟く。
 僅かに撥ねた血飛沫も、傘の赤い色に吸い込まれて消える。家に帰るまでには、この小雨が全て洗い流してくれるだろう。どこかの酔狂な変質者の所為で狂ってしまった予定のことは、宿に帰って彼の判断を仰げばいい。
 青年は大通りに出ると、灰色の目をした男に伝える事柄を冷静になった頭の中で整理し始めた。

 勿論、今殺してしまった男性のことは内密で。



back | | next