血よりも強く 第2章「異邦者は笑う」  17* 乙女と屍体




 机――机の上と言った。
 ふらふらと力なく足を動かし、二階へと上がる。まるで雲の中を歩いているように定かではない足元に、何度も転びそうになる。のろのろと廊下を進み、書斎の扉を開けた。
 中は質の良さそうな絨毯が敷かれ、四方の壁には天井まで届く本棚が並べられていた。その全てが埋められ、書籍の種類はざっと見たところだけでも語学書や神学、経済、歴史など、多岐に渡っていた。整理中だったのか、絨毯の上に多くの書籍が積まれている。
 奥にある大量の本に囲繞された大きな机の前までやってくると、雛菊はその上を俯瞰して見た。しかし、それらしきものは置いていない。
 後ずさりして部屋を出ると、暫く考えた後、寝室の方を覗いてみる事にした。
 大きなベッドの向かいにあったのは、小さな古い机だった。
 申し訳程度に置かれているそれは、書斎のものと違って余り使われている感がしない。その上に、白い布が被せられた何かが置いてあった。
 余り大きくないそれは、雛菊が両手で掴むと丁度いい具合にフィットした。
 これが、私の物?
 心当たりが無い。首を傾げながら布を取って――少女は言葉を失った。
 無機質な花畑。
 静かな笑顔で踊る乙女達。
 窓から差し込む青空の光に呼応するように、ぬめった光を放つ時を刻む陶器。
 それは、彼女が憧憬と共に見つめた、あの店の時計だった。恐れるように人差し指で触れると、ひんやりとした感触が伝わってくる。秒針は無い。しかし、静寂の部屋の中では、確かに時を厳格に切り取る小さな音が伝わってくる気がした。そのままそっと、人差し指を花畑へと移す。
 セルゲイは――自分が店を飛び出した後、きっとこれを買ったんだ。自分はぼんやりしている気の利かない子供だから、帰り際に彼が持っていた紙袋に何一つ疑問を持たなかった。
 嫌だ。
 人差し指は乙女をなぞる。彼女は凛とした笑みのまま、それには応えようとしない。
 いやだいやだいやだ。
 指が離れて握り拳を作った。
 こんな物いらない。こんな綺麗な物を置いていなくなってしまうなら、こんな不吉なものはいらない。私が欲しいのは、高級な置物でも綺麗な服でも美味しい食べ物でもなくて――
 雛菊は置時計を両手で乱暴に掴み、床に叩きつけようとした。しかし手は頭上で止まる。意志とは裏腹に、凍ったように手は言うことを聞かない。いや、体は彼女の意志に反抗しているのではなくて、心の奥底の本当の意思を読み取って忠実に従っているだけなのだ。
 力なく座り込むと、雛菊は時計を抱きしめた。冷たくて硬いその肌が何故かとても温かく感じて、彼女は顔を歪める。不思議だった。何故自分は、これほどまでに消沈しているのだろう。
 その時、少女の目に古い机の抽斗ひきだしが目に入った。
 座り込んでいる彼女の丁度目の前にあるそれは、矢張り余り使われていないように思われる。所々、僅かな埃が縁に浮いていた。いけないとは思いつつも、なんとはなしにそれをゆっくりと引いてみる。軽い。音も立てずに、抽斗は大きな口を彼女に見せた。
 そこには殆ど何も入っていなかった。ただ一点、何か細長い物が静かに底に沈んでいる。それをゆっくり掴みあげ外に出すと、雛菊は怪訝な視線をそれに送った。
 それは美しい彫刻に小さな宝石がはまった、古めかしい短剣だった。
 刃は鞘に収められて見ることは出来なかったが、ずしりと重い存在感は、それが作り物ではない本物だということを表している。
「なんで、こんなもの……」
 小さな呟きは抽斗の中へと吸い込まれる。片手に置時計を、もう片方に短剣を持ち、じっと交互に見比べてみる。どちらもとても綺麗だと、心の隅で思った。
 突然、玄関のベルが鳴り響く。
 雛菊は弾かれたように顔を上げ、すぐに短剣を元通り仕舞って抽斗を閉めると部屋を飛び出した。帰って来たのかもしれない、と思うと、階段を降りる時間すら惜しかった。

「セルゲー!」
 勢いよく玄関を開けた途端、ごん、という音がして雛菊は驚いて扉を引っ込めた。ベルを鳴らした訪問者は沈黙している。恐る恐るドアの隙間から顔を出すと、うずくまって額を押さえている司祭服の人間が見えた。
 但し――それは女性だった。


「あ、あの……」
 恐々と声をかける雛菊に、女性は俄然立ち上がり、忿然ふんぜんと食ってかかってきた。
「何すんのよこの木偶坊! 手紙の返事は書かないし顔見せにも来ないし、しかも最後は暴力です? 私を舐めるんじゃないわよ! アレックス!!」
 鬼だ。くるくるに巻いた赤毛を逆立て、深緑の瞳を怒りに燃やす女性を凝視して、雛菊は故郷の伝説の悪魔を思い出した。指が3本しかなくて、人を食べて歩くと言う恐怖の象徴。恐ろしさのあまり、声が出ない。
 すると鬼は、急にその怒りの表情を収め、目の前でがたがたと震える雛菊の相貌をまじまじと見つめると、
「……あら? アレックス、貴方そんなに可愛らしい顔してたっけ?」
とうそぶいた。少女は目を真ん丸くして、恐怖に歪んだ色で女性を穴が開くほど見つめ、小さく首を振る。そんな人知りません、と言おうとしたが、そ、とだけ言うと後の言葉が出てこなかった。女性はちょっと舌を出すと、極まりが悪そうに愛想笑いをした。
「そうよねえ。ごめんなさい、間違えちゃった。貴方は――お手伝いさんかメイドさんかしら? アレクサンドルさんはいる?」
 アレクサンドル――アレックス――。
 ああ、セルゲイの事だったのか。
 そう理解した途端、また突然の珍客による混乱に隠されたあの悲しみが蘇る。俯いてしまった雛菊を見て、女性は少し慌てたようだった。
「ごめんね、怖かった? 痛くないわよ、もう平気。ほらみて」
 と、勘違いをして前髪をかき上げほんのり充血した額を見せる。あれだけいい音を鳴らせてドアと衝突したのに、瘤にもなっていないようだった。しかし雛菊は俯いたまま、顔を上げようともせず、外貌を悲愴に歪めて小さく呟く。
「セルゲーは、いません」
「え?」
 女性は困惑した顔で、頬に手を置いた。細長い、形のいい指が赤毛に絡まる。
 彼女は目の前の少女が大事そうに抱えている物に目を遣りながら、「教会も閉まっているし、どこ行っちゃったのかしら」と柔らかい女性らしい声で言った。
 とても美しい人だ。
 赤い髪は鎖骨あたりまで伸ばされ、黒いワンピース風の司祭服に身を包み、薄い唇を少し突き出して不満そうな顔をしている様子さえ、不思議と神々しかった。その容貌を一瞥して、雛菊は、「た――」とどもる。
「ん?」と女性は首を傾げて微笑み、その様子が余りに優しかったので、雛菊は――矢張り、堪え切れなかった。
「た、逮捕されちゃい、ました」
「………え?」
 しゃくり上げながら、涙をぽろぽろ流しながら、必死に訴える。
「私の、私のせいで、セルゲーは、さっき警察にっ」
「逮捕ですって? 何をやったの?」
 何もしてない、と雛菊は懸命に首を振る。女性は初めは呆気に取られた顔をしていたが、やがてその緑色の瞳は気の強い鋭い光へと姿を変えた。そして端然と背を伸ばし、あの馬鹿、と怒気を孕んだ声で呟いて舌打ちをする。
「詳しい話は――いいわ、直接聞く」
 雛菊を一瞥し、次にその視線を朝の空へと飛ばした。



 セルゲイは困惑していた。二人の刑事に小さな部屋に通され、そこの小さな窓には鉄格子がはめられている。それ自体はどうでも良かった。問題は、自分はどう振舞えばいいのかという事だ。
 勿論、自分は犯行に一切関わっていないという事をどのように表現すればいいのかは自ずと決まってくる。しかし、「その状況では、聖者ならばどのように行動するか」を常に考えて振舞っている彼にとって、現在の状況はデータが無いので参照出来ない。過去に警察に連行された聖者がいたなどという話は聞いた事が無いからだ。
(……適当でいいか)
 散々考えて出した結論は、この一言だった。大変合理的である。
「ええと――貴方の名前を教えてください」
 一方、彼の正面に座った新人警官は居心地が悪そうにペンを構えた。セルゲイが意識しているのかそうでないかは不明だが、困惑している心中を一切表情に出さず涼しい顔で座っているものだから、ナイトの方は遣り辛くて仕方が無い。銃殺事件現場のB&Bの家主と同じく協力的ではあるのだが。
「セルゲイ=ニコラエーヴィチ=アレクサンドル。1871年生まれ28歳、旧キセー帝国出身。家族は全員アッシムカ国にいます。こちらには18歳の時――」
「あ、ああ、結構です、ありがとうございます。大方は知ってますから」
 司祭は口を噤んでナイトを見据えた。その静かな視線に、警官はしまったと頬を引き攣らせたが、すぐに次の質問に移った。
「アレクサンドルさん、貴方が娼館の少女を買ったという話を聞きました。人身売買はご存知の通り、法で禁じられています。詳しい話を聞かせてください」
「買いましたが、それが何か?」
「……」
 余りに素直な回答に、ナイトは一瞬言葉につまった。この国の聖職者はスキャンダルを毛嫌いする傾向があるから、まさかこんなにあっさりと首肯されるとは想像しなかったのだ。
(何か、って……)
 セルゲイは静かにナイトを見つめている。それはちょうど6日前に虱潰しに訪問した家の一つにいた彼の顔と、殆ど変わらないように思う。警察署に連れられたというのに、少しも動揺していない。何故こうも――揺るぎないのだろう。
 その薄い色の瞳を凝視していると、なんて図太い奴なんだ、と無意味な怒りが沸いてきた。つい、警官の職務としてではなく、個人としての感情的な言葉が零れる。
「駄目じゃないですか。逮捕しますよ」
「それは困りますね。見逃してください」
 未だ少年の面影を残し不機嫌そうに言うナイトに、司祭は微笑んでみせた。
 ドアの前で腕組みをし、無言で後輩の監督をしていたジャックが笑いながら「オレが女だったら今ので放免してたなあ。残念でした」と口を挟む。ナイトは首を回して背後の先輩を軽く睨むと、再び咳払いをしてペンを構えた。
「兎も角、それは犯罪です。では何故、貴方は彼女を――先刻貴方の後ろにいた子ですね、あの子を買ったんですか? また、他の女性ではなく、何故彼女を選んだのですか?」
 司祭は少し視線を部屋の中の物へ巡らせ、特に見つめるべきものも見付からなかったのか、元通りナイトを眺めながら答える。
「人と人は、どこまで関わりあう事を許されると思いますか?」
「は?」
「彼女は私の目の前で、娼婦にならざるを得ない状況に立っていた。14,5の、異国から来た家の無い少女ですよ。娼婦が悪い訳ではない、それも立派な職業です。しかし――私は司祭としてまだ若輩者だ。小さな子供が自ら辛酸を舐める人生を選択する場面で、世の理だ天命だと看過することが出来ずに思わず引き留めてしまった。この利己的な行動を貴方がたの言葉で罪だと言うのなら、仕方ないでしょうね」
 ナイトはただ、その言葉が体に染み込んでくるまで、微動だにせず相手の顔を凝視していた。実に合理的で、頭の良い、遣り難い男だと今度は些か感心する。筋が通っている話振りに、思わず首肯してしまいそうになるが、ナイトは相手の瞳から目を逸らさずに尋ねる。
「800万なんて大金、よくお持ちでしたね」
「ああ、もうオーナーの方とはお会いになったんですか。私の父は旧キセー帝国では少々資産家でしたのでね、埃の被っている金庫は些か貯えがあります」
「普段使わない金を売春婦の為に使った? 錫杖授与者で司祭の貴方が、何の熟慮も無く?」
 世間体も考えずに。
 セルゲイは口を噤んでナイトの青い瞳を見返した。彼が不審に思っていることは、手に取るように解る。ゴシップ紙にでも拾われたら、例え真実はどうであれ、教会の権威に関わる大スキャンダルになると示唆しているのだ。そしてそれは恐らく時間の問題だという事は、セルゲイも理解していた。
「そういう観点からみると、軽率でした」
 しかし顔色一つ変えずにそう答える司祭に、ナイトは遂に走らせていたペンを止めた。単なる焦慮が、怒りにも似た光をもって相手を射る。矢張り司祭はそれを軽く受け流して、
「私は殺していませんよ」
と小部屋に静かな声を響かせた。
「何の事ですか。俺はそんな話をしてるんじゃありません」
 まだるっこしいのは嫌いです、と呟いて相手は組んだ手をテーブルの上に置く。
「貴方達がエルモント氏の殺害の件で、私に疑惑を投げかけるのも大いに納得がいきます。しかし、私には動機が無い上に、アリバイがありますから。グスタフ3番街の陶器屋の店主と、例の・・少女に聞けばすぐ判るでしょう」
 ナイトは相変わらず不信感を顕にした表情のまま、再びペンを走らせてその言葉を書き記した。
 背後からのジャックの視線を後頭部に感じながら、ナイトは何故こうも苛立つのかと臍を噛んだ。冷静になれと言い聞かせれば聞かせる程、内に波立つ時化は激しくなる。自分はどちらかと言えば控え目な性格で、他人に感情を露わにぶつける事は余り無い方だと自覚していたのに。それは下品な事だと、今はもう交流の無い父親から教わっていたはずなのに。
(きっとこの、違和感の所為だ)
 ペンを置いて正面の青年を見る。いつ見ても同じ相貌をしている。ただ穏やかで、色素の薄い髪と瞳は、その所為で黒い瞳孔が随分と目立つ。自分の派手な金髪と深い海色の瞳とは全く正反対だった。
 ――何かが違う。
 そう思った時、彼の口から突飛な言葉がついて出た。
「エルモントさんに会いますか?」
 おい、とジャックが小さな声で叱咤するが、ナイトは無視を決め込む。
 司祭は、矢張り少し小首を傾げただけで、許諾も拒絶もしなかった。



 地下の薄暗いモルグでは、解剖を控える者が金属製のベッドの上に横たわっていた。
 カビ臭い匂いと、ほのかな死体の匂いとが肺を占領し、何度咳き込んでもそれは出て行かない。
 司祭は目を逸らす事も無く死体を見つめている。既に腐敗の始まったそれは、昨晩見た時と同じ苦痛に歪んだ表情の固形物と化していた。ナイトはなるべくそれを視界に入れないように、敢えてセルゲイの横顔を見つめるが、その瞳は先程と変わらない穏やかな凪の色だった。
 ――何故、動揺しないのだ。
 墓守や葬儀屋とまでは言わずとも、司祭が人の死に身近に接している事は当然だろう。しかし、この目の前のモノは、普通ではない死に方をした人間の残骸なのだ。寿命を全うし、或いは病魔に侵され、静かに息を引き取った物とは根底から違う。無理矢理奪われたのだ。その表情は恐怖と苦痛に歪み、閉じきらない瞼の下から覗く澱んだ瞳は、生あるものに対する憎しみすら露呈している。それは、純粋に――恐ろしいモノだった。
 ふいにセルゲイがナイトの方へ顔を向けた。
「可哀想に」
 そう呟くと、踵を返す。そして入ってきた時と同じく、端然とした歩みでモルグから出て行った。
 ナイトは彼の後姿を眺めながら、自身を射た柔らかな色を思い返し、以前から感じていた違和感の理由が解った気がした。



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