血よりも強く 第2章「異邦者は笑う」
18* 嵐と其々の瞳
「おい、ナイト。いい加減にしろよ」
モルグから出た彼の裾を、ジャックが引っ張って小声で囁く。ナイトは憔悴した顔で先輩刑事の顔を見返した。双眸の底に大風にざわめく海が見える。
「後で聞きますから」
ジャックは思わずその気迫に仰け反り、相手のまだ少年の面影の残る顔をまじまじと見つめるが、彼はふいと顔を逸らして廊下の先で佇むセルゲイの元へと歩いて行った。
それを見つめ、ただ深く息を吐く。
(参ったなあ。余り自由にさせるのも考えものだけど、押し込むのも意味が無い)
想像以上に積極的に動く彼の、銃殺事件への担当を決定させた事柄について思う。それは暗黙の極秘事項で、ナイトにも、そして周りの警察官達へも漏洩する事は許されなかった。
だからナイトは、自分が突然猟奇的な犯罪の捜査を命ぜられた理由を知らず、不審に思い、知らないからこそ懸命に事件の真相を追っているのだ。
密かに彼の監督役を担うジャックは、そんな彼を時折疎ましくも思う。
経験が浅いのは自分も同じだ。
ナイトはそれに輪をかけて何も解っていない。
自分の、存在理由さえ。
――親父さんも無理難題を吹っかけてくれたもんだ。
そう呟いた彼の声は誰にも聞こえないはずだったが、丁度その時離れていたセルゲイがこちらに向けた視線とぶつかり、つい目を逸らす。2人は彼に構わずまだ何かを話している。ナイトも背が低い方ではないが、セルゲイと並ぶと随分小さく見えた。
ジャックはその様子を横目で眺めながら、睡眠が確実に不足した瞼を軽く擦る。2人が指の動きに合わせてゆらゆらと歪んだ。
それからどうしたものかと煙草を取り出した時、遠くで何か騒ぎ立てる声が聞こえた。
「何だ?」
2人もその喧騒に気付き、声がした方へ顔を向ける。どうやら上階のざわめきが、地下のここまで届いて来るようだった。
その時、地上へ上がる階段から数人の言い争う声が降ってきたかと思うと、黒い服を着た女性がひらりとモルグへ繋がる廊下へと降り立った。続けて警察官が2人、彼女の後を追うように慌てた様子で現れる。
「まあ、アレックス!」
制止しようとした職員を引きずりながら、彼女はセルゲイの顔を見るなり開口一番そう言った。ナイトとジャックは、それが誰の事か分からずに困惑したように女性の顔を凝視するだけだ。当のアレックスは、その女性の顔を暫く呆けたように凝視していたが、やがて小さく
「ミネルバ?」
と呟いた。
薄青紫色の瞳は僅かに驚愕の色を帯び、憤怒の相をありありと浮かべてこちらへ歩み寄る彼女の顔と困惑顔のナイトを見比べる。
「どうしてここに……いや、何時こちらに?」
「今朝よ、後で話すわ。それより、なんて様なの? 焼きが回ったとしか言いようが無いわね。ちょっと、離しなさいよ」
女性は顔を顰め、腕や肩を掴んでいる職員の手を苛々とした調子で振り払う。赤い巻き毛が軽く弾んだ。
「いいから出て行きなさい、さもないと公務執行妨害で――」
「あら、私も逮捕? やれるものならどうぞご自由に!」
職員の鼻面に人差し指を突き出すと、彼女は挑発的な声音で相手を煽る。
出で立ちから、恐らくはセルゲイと同じ聖職者なのだろう事は推測できたが、その態度は余りにも彼とはかけ離れていた。彼と較べる事が正しいのか誤りなのかは、ジャック達には測りかねたが。
「あの」
ナイトが控えめに言葉を挟むと、女性はきつと彼を睨めつけた。気の強い緑色の視線に気圧されながらも彼は、部外者は立入禁止です、と注意を促す。
しかしミネルバは、はん、と鼻で笑い飛ばして腕を組んだ。
「お黙んなさい、坊や」
「ぼ……」
「錫杖授与者を逮捕だなんて、貴方達肝が据わってるわね。大司教も吃驚よ。礼状はあるの? 罪状は何? 証拠はあるの? この木偶坊が罪を犯した証を見せなさい、今すぐに。ああ――無さそうね、なら帰るわよアレックス」
と、呆然と彼女の顔を見つめていたセルゲイの腕を掴み、鼻息荒くずるずると引き摺ってゆく。あの、とセルゲイが声を出すが、聞こえない振りで歩みを止めない。困惑した顔で引き摺られるまま、
「もういいですか?」
と2人を振り返ると、我に返ったナイトが慌てて彼女の前に立ち塞がった。歩みを止められ憮然とする彼女に、ナイトは強い口調で言う。
「逮捕じゃありません、任意聴取です。錫杖授与者だからって何なんですか!」
その言葉に、ミネルバは顔を硬直させた。ぽかんと口を開け、眼前に立ち塞がる警官の顔を穴が開くほど凝視する。
「え……。任意、聴取……? 逮捕じゃないの?」
唖然とした表情で振り返る彼女に、司祭は腕を掴れたまま冷静に首を振ってみせた。
ミネルバは今度は柳眉を吊り上げて再び怒りの表情を作る。ころころと、周りが呆気に取られる程によく変わる表情だ。
「嘘、だってあの女の子が逮捕だって泣くから来たのに! 何よ、聴取ならさっさとそう言いなさいよ、恥かいたじゃないのっ!」
ばしん、と掴んでいたセルゲイの腕を叩くと、ミネルバは益々眉を吊り上げ、今度は鋭鋒を彼へと向けた。
「あの子は、まあ――」
ミネルバは曖昧な笑みを浮かべるセルゲイの胸元をもう一度叩くと、大きく息を吐き、更にナイトの方へと顔を向ける。幾分トーンを落とした声音の落ち着いた調子で言った。
「でも、同じ事よ。任意聴取なら司法裁の礼状は無いわね? だったら、すぐに彼を帰しなさい」
「だから、何でですか」
解ってないわね、と再び腕を組んで鋭い緑色の視線をナイトに突き刺す。
「これは彼一人の問題じゃないわ。一人の司祭が、しかも錫杖授与者が罪を――何の罪か知らないけど、疑われているのよ。後から濡れ衣でした、なんて事になったら貴方達がただじゃ済まないわ。院のいやらしさは知っているでしょう? だから確固たる証拠と礼状を揃えなさいって言ってるの。解った?」
大聖院。
ナイトは、ただその気迫に気圧されるまま呆然とミネルバを見つめるだけだった。
まさか、大聖院が絡んでくるとは思いもよらなかった。確かにあの機関は他からは隔絶された感があり、ある独特の領域を持っている。まるで治外法権でもあるように、警察機関にとっては苦手な分野であることは確かだった。
しかし、まさか――まさか、身内とはいえ容疑者を盲目的に庇護するとは思えない。
ジャックを見ると、彼は何か考え込んでいるようだったが、やがて深沈とした様子で「もういいだろう」と呟く。
その回答に、ナイトは憮然とし、ミネルバはころりと表情を変え嬉々として木偶坊の顔を見上げる。
「ところで、何の罪で連れて来られたの?」
随分と順序が破綻した質問だった。
セルゲイが普段と同じく穏やかに「殺人」と答えると、彼女は口を大きく開けたきり、何も言えなくなってしまった。
嵐が去ってしまった。
呆然と廊下に佇むナイトに、ジャックは煙草の煙をふかしながら声をかける。
「まあ、何だな。あの兄さんが
そういうこと目当てにあの子を身請けしたんじゃないのは確かだろう。しょっぴく理由も無え。それで良しとしようぜ」
「――何で」
ナイトは険しい表情でジャックを振り返り、燃える海色の瞳で彼を射抜く。死臭がここまで漂ってくる気配に体中が総毛立った。
「大聖院が何だっていうんですか? 誰であろうと、疑わしい者には目を離すなと、俺は貴方達に教わったんだ!」
それに、この件と関連があるかどうかはまだ分かっていない、あの銃殺事件。現場のB&Bに現れたのも、セルゲイと同じく背の高い痩せた金髪の男だといった。
疑うべき理由は、いくらでもあるではないか。
院の事もあるが、とジャックは灰を落として冷めた目を作る。
「お前が落ち着く必要があるだろうが」
その声は廊下に反響し、何十人もの罵声となってナイトに襲い掛かる。彼は唇を噛んで俯いた。ジャックは煙草をもう一度深く吸い込むと、空いている手で帽子を触りながら呟く。
「ナイト、お前おかしいぞ。もっと冷静にならないと、とんでもないヘマをやらかす事になる。折角大きな事件を担当してるんだから、親父さんだって期待してるだろう?」
「父は関係無いでしょう。どうしてそういう話になるんですか」
途端、勢い良く顔をあげ、真直ぐな瞳で抗議をするナイトの顔には疲労と焦燥がありありとあらわれていた。ばつの悪そうな顔で溜息をつくジャックに、彼は「何で気付かないんですか」と聞き取れない程小さな声で独りごちる。
煙草の煙に塗れた男は、怪訝な顔で目を細めた。
「同じなんです。あいつが、彼が人を見る一見して穏やかな眼が。だから俺はあの目が大嫌いだ」
「同じって、何と?」
ナイトの顔に張り付いている苦々しい嫌悪感をどこか遠い瞳で眺めながら、ジャックは彼の次の言葉を待った。
「彼がまともな人間なはずは無い。彼の、俺達や死体や石ころや壁を見る目は全て同じなんです。まるで有機物と無機物の区別がつかないみたいに」
+
困ったな、と。
灰色の目の男が、同じく灰色に光る銀の髪を撫で付けながら、虚空に向かって呟いた。ソファにだらしなく横たわっていた青年が、それを耳ざとく聞きつけて目を丸くする。
「へえ、エンデが困ってるよ。オレ、初めて見た」
手持ち無沙汰にソファの上の青年は、天を向いた青い短髪をいじりながら、近くにあった新聞を手に取った。
無気力な顔で数行の記事を目で追い、「つまらない」と呟いたかと思えば、それを二つに畳んで水平に宙へと飛ばす。新聞は、古臭くはあるが清潔に保たれた暗い赤色の絨毯の上に無残に舞い降りた。
このB&Bの部屋は家主からは殆ど放置されており、そこ等中の家具が埃のヴェールに包まれていたが、贅沢を言わなければ全く居心地のいいものだった。朝食の給仕を断ると、最早彼らの家である。誰に何を言われる事も無く、好きに生活が出来た。
エンデと呼ばれた灰眼の男は、気の抜けた声の主を一瞥もせずにただ窓の外を見つめている。今日は朝から晴朗な空模様で、中天に輝く太陽は穏やかに大地を暖める。だが彼にはその青空に何の感慨も湧いてこない。
予定が狂いに狂って5日が経つ。
金目の少女が再び娼館に売り戻される事を期待してみたが、どうもその気配は無い。買った人間の事を僅かなりとも調べてみたが、特に目につく事は無い。その男が錫杖授与者であることと、キセー人であるということを除けば。
「その男は黎花との関わりも無い、普通の人間だ。まだ始末が着け易いのが幸いだったな」
「キセー人の癖に、アイフォン国で司祭サマやってんだよな。救いようがないな、オレ的に」
青年がぼやく。エンデは初めてその赤茶色の目を肩越しに見て、「そういう言い方はよせ」と言った。
その男が何人であろうと、生業が何であろうと、さして問題ではない。問題なのは、如何にすれば自分達が仕事を完遂出来るかということだった。金目の少女が娼婦となれば、仕事もし易かった。しかし、予期せぬ邪魔者――そのキセー人が彼女を買い取ってしまった為に、予定が根本から崩れてしまったのだ。
その事をエンデに報告してきた青髪の青年は、さして顔色も変えずに雨に塗れた体をタオルで拭いていた。エンデは、その様子が気に食わなかった。
「問題は、そのキセー人の周りに警察がいるという事だ。誰かが、娼館とそいつとの仲介人を殺してしまったお陰でな」
一瞬、青年はソファの上で体を固まらせた。そして「ふうん」とさも無関心な声を出してエンデの視線から逃れようとする。最早、彼の疑惑は確信に変わっていた。
「お前がやったんだろう。イフ」
「……オ、オレじゃないよ」
イフは、暗い青髪をいじり続けながら小さな声で呟くが、その視線は色々な場所を彷徨って定まらない。エンデは続ける。
「レイピアで喉元を刺されたらしいな。レイピアのような、細い物で。お前の獲物と良く似ている――」
わかったよ、とイフは声を荒げると、開き直ってソファから身を起こした。
「悪かった。魔がさした。もうしません。すいませんでした! でも、オレが悪いんじゃないぞ。その糞坊主が妙な真似をするから、こんなことになったんじゃあないか。その子が大人しく娼婦になってたら、万事滞りなく殺せたのに」
「イヒェルト!」
鋭い、猛獣のような恫喝が部屋を切り裂く。
美貌の青年ははたと口を噤み、眉を吊り上げて在らぬ方を睨んだ。窓際に佇み、彼を凝視する灰色の瞳は、その怒声とは裏腹に落ち着いた光を湛えていた。
「……いいか、俺達はそこらのチンピラじゃない。上から預かった『特別な獲物』を駆使する、3人で一組の軍隊だ。お前一人が先走ると、全ては死に至る。これは試練なんだ。上が俺達に与えた試練は、同時に唯一絶対の命令であり、従って俺の言葉は上の言葉だ。――二度は無いぞ、イフ」
青年は憮然とした相貌で曖昧に頷いた。一見、二十歳頃であろうかと思しき容姿とは裏腹に、まるで幼子のような表情の作り方だった。
エンデは慣れているのか、その様子を一瞥すると、すぐに窓の外へと視線を戻す。
相変わらず陽気な蒼穹に、鳥が弧を描いた。
同じ空だ、と一人思う。
アイフォンゼーベルも、南国の黎花も、母国も、空は同じ青をしている。どれだけ隔たれた地にあろうと、空は一つなのだ。哀れな異国の少女も、お節介な亡国の司祭も、この空を見上げて自分の生まれ育った国を思っているのだろうか。
その刹那、名を呼ばれ、エンデは視線を空から窓枠へと移した。背後でやや機嫌の直った声でイフが続ける。
「どうするの、彼女。どうやって始末をつける」
「まあ、案は色々ある。具合良いことに、街は物騒な話で持ち切りだから遣り易い。例えば高名な聖職者に売り飛ばされ、人生に悲観して入水自殺とかな。これは下手をすればアイフォンゼーベルと黎花の国際問題になる」
「……つうか、戦争になるんじゃない? あの子、神様の末裔なんだろ?」
そこまでは知らん、とエンデはつまらなそうに窓の縁に手をかける。
「それは焔蓮華を追いやった現黎花王の腕の見せ所だろう。アイフォンに大きな貸しを作って都合の良い様に政をすればいい。それに千年以上国を統治してきた化け物一族だ、神格化されないほうがどうかしている。彼奴らは――人間だよ」
確かに、人間だった。
妙なる黄金の瞳を持っていても、斬れば血を吹き、血が出てゆけばやがて冷たくなる。政から離れ、都からも離れ、空と海の狭間の美しい田舎で家族と共に生きていた、ありふれた普通の人間だった。
彼ら一族を神たらしめたのは、その驚くべき偉業と瞳だけだったのだろう。
どっちでもいいよ、と移り気な青年は頭を掻きながら言った。
「で、どうするの。
またあんたがやるの? 出来ればオレ、その子の顔を見ておきたいんだけど。その、ありがたい血統のデイジーちゃんをさあ」
あなどるなよ、とエンデが顔を窓に向けたまま呟く。
「あの娘の親は強かった」
イフは返事をしなかった。
男の言葉が埃臭い空気に消え入ると同時に、玄関の扉が小さな音を立てて閉じた。
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