血よりも強く 第2章「異邦者は笑う」
21* 邂逅と夢
暫く相手が言葉を発するのを待ってみたが、彼は黙したまま何も言わない。ただじっと、雛菊の顔を眺め続けるのみである。
「あの」
自分がぶつかった事で気分を害したのだろうか。恐る恐る声をかけると、青年は漸く静かに口を動かした。
「どの缶詰? 蟹?」
「あ――はい、そうです」
いとも容易く蟹の缶詰を手に取ると、雛菊に手渡す。そして不意に、見る者の心を蕩かすような微笑を浮かべた。
(うわあ、凄く綺麗な人……)
缶詰を受け取りながら思わずその手を見ると、確かに細身ではあるが男性のそれだった。もう一度まじまじと顔を見る。セルゲイも端正な顔立ちをしていると思うが、この青年は別の次元だと思った。どこか神がかり的な雰囲気を持つ美しさだ。
すると青年は、雛菊の視線に僅かに顔を歪めて横を向いた。
「あ、ごめんなさい。あの……ありがとうございます」
そう言って慌ててもう一度辞儀をし、顔を上げた時、青年は雛菊の米を持ち上げようとしていた。思わず動揺すると、「重いでしょ」と言って降ろそうとしない。
「他に買うものは?」
「え、ええと――ありません」
そう、と頷いて彼はやおら歩き出した。すたすたと真っ直ぐに精算所へと向かい、カウンターに米を置く。雛菊は慌てて後を追い、缶詰をその隣に置いた。炭酸の抜けたソーダ水みたいな声で値段を告げる店員に紙幣を渡すと、釣り勘定の間に隣の青年の顔を盗み見る。
暗く染めた青い髪に、何を考えているのか分からない美しい横顔。
「君んち、どこ?」
突然視線が絡んだ。雛菊は赤面しつつも「近所です」とだけ答える。
青年はじっと少女の顔を見つめていたが、やがて再び米を持つと店の外へ出ようとする。
「あ、あの――待って」
まさかこのまま持ち逃げされるのでは、という焦燥感に駆られ、缶詰を掴むと後を追った。例の声が後ろから釣銭の存在を告げると、慌てて引き返して受け取り、もう一度店の外へと飛び出す。
青年は、ちゃんと雛菊が出てくるのを待っていた。
「帰り道、大通り方面なら途中まで持ってあげるよ」
「でも……」
「大通り方面?」
「はい」
何とマイペースな男だろう。妙な気迫に負けて思わず返事をしてしまってから後悔するが、もう遅い。缶詰一個をお気に入りのショルダーバッグに放り込むと、黙って歩き出した青年の隣につく。
昼も過ぎた商店街には、夕飯の材料を物色に来た主婦やメイドらしい少女達が忙しく往来していた。そのどれもが大きな手提げ鞄から大根の葉やワイン、パンなどを覗かせている。それを見てもう少し色々と購入すれば良かったと思いながら、雛菊は再び隣を歩く人間の顔を横目で見上げた。
相変わらず、表情の見えない美しい貌で前方に視線を置いている。
会話が無い――。
人見知りする性格の雛菊にとっては、最も苦痛な状態だった。
いい天気ですね、と一言でも声をかければいいのだろうが、青年の目的が分からないからそれもし辛い。こんな時、母だったら如才無く捌けるのだろう。
がちがちと堅い足を前に出しながら、そんな事を頭の中でひたすら巡らせていた時、青年が突然声を出した。
「君さあ――」
「は、はい?」
心臓が一際高鳴る。彼の目的が明らかになる予感がした。
しかし、彼は。
「ちっちゃいよね」
唖然と、少女は相手の顔を見上げた。ぽかんと口を開け、その悪意でも冗談でも無く純粋に呟いたであろう言葉を反芻する。2,3拍置いて、勢い良く顔に血が昇り始めた。
歩みを止め、斜め上にあるその芸術品のような相貌を睨み付ける。
「な、わ、悪かったですね! どうせ私はチビですよ、12歳に見えますよッ。でも、あなたにそんなこと言われる筋合いはありません!」
すると相手は驚いたように立ち止まり、目を丸くして少女を見下ろした。
「……え? いや、オレは」
「あなたにだって気にしてる事、あるでしょう? 簡単にそういう事を言っちゃ駄目です! 馬鹿にする為に親切をしたなら、酷い侮辱よッ」
その鋭く尖った自分の声が外界に放たれた瞬間、雛菊は我ながら大いに動揺した。上気していたであろう頬もすぐに柔らかい風によって熱が攫われる。思わず周囲に視線を泳がせるが、幸いにもこちらを見ている者はいない。そしてすぐに顔を地面に向ける。
見知らぬ人間を怒鳴りつけてしまった。
自分の中で強く劣等感として根付いている部分を不躾に突付かれる事は、すべからく怒りに値する。だがそれに対して反射的に大声で喝破するのは、同じく無礼な事ではないかと、雛菊は青くなった顔で俯いたまま思った。強い悔恨の情が生まれる。
青年は、沈黙している。
怒っている――のだろう。街角の雑音に包まれたこの沈黙は、まるで針の筵のように少女を刺激した。罵声や怒声が降ってきても恐ろしいが、静寂はただ痛ましい。
ほんの少しの息継ぎの後、漸く相手の顔を見る覚悟が生まれ、雛菊はそろそろと青年の顔を上目遣いに見た。
青年は、静かに雛菊を見下ろしているだけだった。
その目には怒りの炎など存在せず、穏やかな赤銅色が雛菊の不安げな顔を映し出している。
「ご……ごめんなさい」
小さな声で呟くように謝ると、彼は僅かに頷いたようだった。そして次に、そうだな、と独り言のように言う。
「そうだな――その通りだ。ごめん。キミを傷つけるつもりは無かったんだ」
その言葉に肩透かしを食らったような錯覚を覚えた雛菊は、呆然と青年の顔を見上げ続けた。安堵と共に、どっと汗が噴き出す。
「そんな、私も失礼な事を」
「怒って当然だよ。悪いのはオレだ、気にしないで」
それから天上の者のような笑みを浮かべると、彼は再び道を歩み始めた。雛菊も黙ってその隣につく。暫くそうやってお互い口を開かず歩き続けた。沈黙は先程と同じものだったが、少女が感じていた気まずい雰囲気はどこか和らいだ気がする。
明るい色の石畳を踏み締めながら、青年に意識を向ける。自分の無作法な態度に気分を害するどころか、笑って謝辞を述べた美しい相貌が脳裏に浮かぶ。今は無表情に戻っているのだろうか、それを確認するには少し勇気が足りない。何故か、恥ずかしい。
そうして何度目かの路地を横手に見て、幾つ目かの店を通り過ぎた時、青年が再び口を開いた。
「言い訳になるけど、別に悪気があった訳じゃない。本当に可愛いと思って言ったんだよ」
「――へっ」
我ながら間の抜けた声だ。
……この男は、今何と言ったのだろう?
青年は至って真面目な顔で横目に少女を一瞥する。雛菊は、何と応えればいいのか、どんな顔をすればいいのか分からず、困惑して眉を上げたり下げたりしてみた。
可愛い、と。
そう言ったのだろうか。
「怒った?」
その問いに、いえ、と曖昧に答え、言葉を選びながら正直な感想を述べる事にした。どうせ自分には、気の効いた如才ない台詞など出てくるはずが無いのだから。
「私より、あなたの方がよっぽど綺麗だと思います」
すると青年は僅かに声のトーンを落とし、「馬鹿なことを」と呟いて口の端を上げる。歩みを止めぬまま、雛菊は思わずその自嘲的な表情に見入った。心の底から滲み出て来る何らかの感情に彩られた貌は、自分の良く知る人間とは正反対のものだと感じた。この男は作り物のような顔に感情を発露させ、あの人は作り物のような感情を顔にのせる。
そして雛菊は首を傾げ、「本当の事よ」と返した。
遂に青年は足を止めた。
黙したままやや傾いた青空を眩しそうに見遣り、次に同じく立ち止まった雛菊を正面から真っ直ぐ見据える。
「簡単に言ってはいけない事があると言ったのは、君だろ」
先程よりも更に低くなった声。
どこか炎を思わせる赤茶色の瞳は、少女以外に何も映していない。
その無表情に滲み出る感情の色が僅かに濃厚になる。
――今度こそ、怒っている。
しかし雛菊が咄嗟に自分の犯した過ちを理解し、再び謝ろうとするその前に、彼は矢庭に辺りを見回して声を上げた。
「もう大通りだ。じゃ、これ」
次の瞬間、ずしりと重いものが両腕に圧し掛かる。思わず雛菊は
蹌踉めき、両脚を踏ん張って体を支えた。米袋は、思っていたよりも随分と目方があった。これを片手で軽く持っていた青年に、僅かながら嫉妬に近い感情を抱く。
「ありがとうございます、助かりました。――あの、あなたのお名前は?」
名前、と青い髪の青年は少し考え込むように視線を揺らせた。つい今しがたの強い感情を内包した表情は影を失せ、現れる無邪気な思案顔。まるで自分の情をころりと忘れてしまったかのような変化に、少女は奇妙に感じた。
そして彼は、益々奇妙なことを言う。
「あんまり良い名前じゃないから、教えたくないな。キミが適当につけてくれればいいや。名前なんてただの記号だろ?」
「記号、なのかな。私は、両親が与えてくれたとても大事なものだと思います」
少女が首を傾げつつそう言うと、名無しの青年は微かに目を細めた。「キミは幸せだったんだ、」と独り言のように答える。
「愛されてたんだね。まるで――花のように」
少し前傾姿勢になり、雛菊の瞳の中を覗き込む。
雛菊は何故か指一本動かす事が出来ず、近くなった赤茶色の光を凝視する他無かった。
また、今度ね。
青年はそう言うと、重荷の失せた右手で雛菊の細く長い亜麻色の髪に掠めるように触れ、踵を返して大通りへと行ってしまった。触れられた一房の髪が、涼しい風に吹かれ一度宙を漂ってから彼女の元へと戻る。雛菊は、重い米袋を抱えたまま歩道の真ん中で佇んでいた。何故か足を動かすのが億劫で、細身の後姿が消えた曲がり角をじっと凝視し続ける。
もう夏が来たのだろうか。
微かに火照った頬は、五月の涼やかな気候には些か不釣合いに思えた。
その晩、少女の作った蟹雑炊は珍しく美味で、初めてその味に触れるミネルバは彼女の料理の腕を誤解して感動していた。雛菊は嬉しそうにその様子を眺めていたが、何故か――セルゲイの薄い空色の瞳を正面から見ることが出来なかった。
+
彼が目を開けたのは、普段通りの早すぎる時間だった。部屋は暗く、外からは鳥の声ひとつしない。今日に限って不思議と起きるのが面倒で、朝陽が昇る前の窓の色を見ながら、布団の中でぼんやりとしていた。
不意に部屋の中の空気が動いて、人の気配が現れる。彼がその異様な気配に思わず布団から顔を上げ、上半身を起こすと、ベッドの足元に黒い影が腰かけていた。
雛菊、と声を出そうとして、それがあの少女では無い事に気付き、口を噤む。その黒い影は確かに女性の体付きをしていたが、雛菊よりは背が高く、女性らしいしなやかなシルエットを持っていた。ミネルバでもない。影は、肩より高い位置で髪を切りそろえていた。
誰だ、と言おうと口を開けた時、影が甘ったるい声を発した。
「やだ、もう忘れちゃったの? ひどいじゃない。約束したのに」
――約束?
「きっと思い出すよ。雪を見れば」
――私は貴方を知らない
影は少し首を傾げたようだった。夜明け前の暗闇の所為で、その相貌は見えない。
「あたしも君を知らないなあ。君は誰? 君は、本当にあたしの君?」
――私の名前は……
「思い出せないでしょう。いいの、だってこれは夢だから。でも、君が毎朝窓の外を覗いているのを知っているよ。あたしを待ってくれてるんでしょう?」
――貴方は誰だ? 貴方も私を知らないのなら、何故ここにいる?
「眠ってる王子様を起こすのはお姫様の役目でしょ。君はとっても優しいし、恐い物知らずだから、だから凄く可哀想なんだ」
影は、布団の上から彼の左足にそっと触れた。ひどく暖かい波が触れた部分を中心に広がってゆく。彼は何も言わずその影を凝視していた。
この影を知っている。確かに知っている気がする。しかし、全く分からない。
「ねえ、君は本当に恐い物が無いんだね」
矢庭にベッドが軋んだ。見ると、別の人影が彼の右側に何時の間にか横たわっている。
小柄な体、腰まで届く長い髪。見慣れたはずの金色の瞳は、ぼんやりと宙を見つめたまま動かない。そっと首筋に手を当てると、そこにあるはずの鼓動は無く、ただひんやりと冷たい感触だけが指先から伝わる。
――雛菊が
「死んじゃった。悲しい? でもそれは、君に懐いてた人ともう話せなくなるから悲しいだけでしょう」
影がやや前のめりになり、自分の顔を覗き込む。左足の温もりは更に強くなる。
彼は雛菊だったものの髪を一房鋤きながら、影の言葉を聞いていた。
「君には恐いものが無い。自分の死すら、きっと恐くない。君が恐れるものがあるとしたら、それはこの世にたった一つだけ」
影は何時の間にか彼の眼前に顔を摺り寄せて、甘ったるい少女の声で囁いた。朝陽はまだ昇らないのに、不思議とセレスティアの瞳が輝いて見えた。
「――それは、目覚めること」
視界の隅で、別の誰かが横切った。
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