血よりも強く 第3章「夢みる傷痕」  23* 竸 -A second view-




 『リバティ紙』はそこそこ名を馳せている中堅新聞紙のひとつだった。
 現在アイフォンゼーベルでトップをひた走る『プリンシプルド紙』は昨年、記事捏造や幹部のいかがわしい犯罪行為が発覚するや否や、それを追う他社にここぞとばかりに叩かれた。勿論、リバティ紙も厭らしくならない様に気を配りながら上品にこき下ろした。お陰で王者の信用は順調に失墜し、愛想を尽かせた購読者を他社が獲得する、新聞社の戦国時代が訪れる事になった。
 プリンシプルド紙は後始末が下手糞だった、とゲドは思う。
 彼らは王者である自覚がある故に、誤った自信を持っていた。市民が求めるものは誠意であるのに、ほんの八行きりの謝罪記事と記者の解雇、幹部に至っては三ヶ月の減給処分で終止符を打とうとした。これではナイフを持つ暴漢達に背中を向けるようなものである。お陰で彼の勤めるリバティ紙は通年の一割増の購読者を得る事が出来、他社を抑えて辛うじて次点の座を奪い取ることが出来た。
 とは言え、修羅場である。
 気を抜けばいつ他の暴漢達に刺されるかも知れない。社長は月に二度の朝礼で、唾を飛ばして社員を叱咤激励した。集められたのは雑然とした大部屋だったが、そこは作業場に変わりはなく、机が邪魔で全ての社員が入りきれる訳が無いと知っていたので、ゲドがのんびりと部屋に到着した頃には社長の檄は終わっていた。
「なんだって?」と部屋から眠そうな顔で出てきた痩せ気味の女性に聞くと、「死ぬ気でやれって」と返され、苦笑するしかなかった。実際、いつ死人が出てもおかしくないと行列を成して部屋から巣へと戻る社員達を眺め思う。皆一様に黒い隈を作り、青い顔をして目を擦っている。この戦国時代を生き抜く為に、どこよりも早くスクープを手に入れようと日々奔走している所為だった。
 今の獲物は、日を置かず起きた陰惨な二件の殺人事件。
 しかもうち一件は市会議員が銃殺されていたものだから、これに関する記事を書けば取り敢えずは売れる。ある新聞社はこれらを一連の連続殺人だと論じ、またある社は非道義団体の組織的な犯行だと論じ、そして仕舞いには意味不明な警察の陰謀説まで唱える紙さえ出てきた。
 誰もが必死でこの事件達を追っている。
 寡黙な警察や遺族から何とか情報を得ようと、カモの子の様にへばり付いて離れない。それは何の為だろうか、とデスクでコーヒーを飲みながらゲドは漠然と考えた。
 生活の為だろうか。それとも正義感、社への忠誠、記者としてのプライド――。
 どれも違う気がする。敢えて言えば惰性ではないだろうか。自分の居場所として与えられた場で、それ以上それ以下の功績を出す努力もせず、こうあるべきだと自分自身に刷り込んだ紋切型の行動をする。彼らの場合、スクープを取り修羅場を乗り切れ、という命令こそが常時の紋切型なのだ。
 ゲドは自分の居場所はそこには無いと思っていた。賃金さえ貰えればそれで良いと心中では思っている。社が潰れようが王者になろうが、さして問題とも思えないのだ。体を壊してまでやれと言われれば断る。クビにするぞと脅されれば重い腰を上げる。彼にとって、記者という仕事はその程度の瑣末なものだった。
 もっとも、それは彼が記者と言うより定期的に寄稿をする短期契約社員のようなもので、翻訳記事や他の記者の補助を生業としている所為かもしれない。

 彼は今、時計の針が昼過ぎを示すのを気にしながら異国の新聞を眺めていた。
『アッシムカ国政治政策部総司令官ヴィルヘルム、母国ゾルドバスの軍事長官に任命』
 キセー語でそう書かれた記事の上を、特に何の感慨もなく視線を滑らせる。暫くぼんやりと合わない視線をそこに置いていたが、やがてタイプライターでアイフォン語へと翻訳し始めた。
「また頂戴するんだな」
 破裂音と共にタイプをしながら苦笑する彼に、後ろのデスクで記事製作に追われていた同僚が「あん」と妙な声を上げる。
「どうせ分かりゃしないよ。どうしても紙面のスペースが埋まらない、アイフォンにはアッシムカ人が多いから需要もある、と来れば聖人様だって笑顔で許して下さるさ」
 こちらの方を見向きもせずに山と詰まれた資料やノートの紙片を読み比べる相手に、ゲドは口の端を上げたまま指先の破裂音で応える。
 軍事長官、に当たる単語を脳裏で探す。元帥がいいだろうか。アイフォンゼーベルとゾルドバスは軍の編成が微妙に違うので、そのまま言葉だけを移植していいものか悩むのだ。
 兎に角、トップだ。両陸海軍を束ねる最も勇敢で優秀な頭脳を持つ役職だ。
「元帥でいいよな?」
「誰、ヴィルヘルム=エヘル? ああ、いいんじゃない」
 同僚は同じく振り返りもせずに煙草を咥えたまま随分と適当に答えた。
 ゲドは諒解と言う代わりにタイプライターを打ち鳴らす。
 ヴィルヘルムはゾルドバス国の有名な軍人だった。と言うのも、十年前にキセー帝国に討ち入り圧倒的な戦力と手腕で征服したのが、この男だったからだ。征服後もキセー帝国の統治を任され、ついこの間まで、追放したキセー皇帝の代わりにキセーをゾルドバスの属国として復興させていた。
 そんな優秀な軍人が母国に戻され遥かに高い椅子を用意されたというのも、まったく理に適っている。
 キセー人――今は彼のお陰でアッシムカ人と呼ばれる人々は、ヴィルヘルムを憎んでいる者も多い。しかし、不況の折で国が揺らぎが頂点に達した時に攻め入られ、首都が半壊したものの、その後圧政を強いる訳でもなく寧ろ経済的に豊かになりつつある今、彼に感謝をする者もいるというのも現実だった。
 ゲドは、多分どちらでもない。
 母国から離れたこの平和な国にいるというのも理由であるし、戦争自体を引き起こしたのはヴィルヘルムではなくゾルドバス国であると言うのが正しい。だから、この元帥を憎みはしないしまして感謝などしない。
 ただ、言葉を選んで言うならば、そう――気分が悪い。
 ゲドは小さく息をついた。そして先刻の同僚の言葉を思い出す。
「ところで、聖人様と言えば、上の方から圧力がかかった奴がいたな。その後どうだい?」
 どうもこうも、と同僚は鼻と口から多量の煙を吐き出しながら返した。
「大聖院に噛み付いてまで追いかけるほど美味しい事も無いなあ。坊主の不祥事なんて日常茶飯事だし、あの後すぐに田舎の方で暴行事件起こした奴が出たから、皆そっちに流れたし。正直、娼婦を買った程度の司祭を庇う為にこんな政治的圧力を加えるなんて大人げ無いよ」
「錫杖授与者だからだろう」
 ガリ勉の聖人様だもんな、と笑って彼は深く煙草を吸った。
 オフレコかい、と尋ねると、相手は丸い肩を揺すって「神罰が怖くないならな」と揶揄した。
「ああ、思い出したら腹が立ってきた。寝る間を惜しんで校了までしたのに、突然有無を言わさず没だぜ。大聖院が横の繋がりのある上院議員を通してうちに脅しかけてきやがったんだ、くそ。あの記事が書けたら倍は売れたのになあ」
「身請けが?」
 違うよ、とスモーカーは苛々とした調子で煙を煽った。
「聖人様の買った娼婦が、被害者の勤めてた宿の娘なのさ」
「――それは、初耳だな。被疑者の射程圏内にいるじゃないか。院が躍起になるのも解る」
「警察にも呼ばれたらしいんだがな、すぐ帰されたみたいだ。だからまあ、怪しいと無理に言えないことは無いって所だな。いいや、違うんだよ。問題はそこじゃなくて、この意外性、話題性、これほど美味しいネタは無いってのに……くそっ」
 話しながら段々と興奮してきた男は、肥えた体を揺らせて憤怒を露わにする。不健康そうな油っぽい白い肌が俄かに上気し、ゲドは苦笑しながら目を逸らした。
 その時、部屋の入り口からゲドを呼ぶ声がした。彼が顔を上げると、芸能面担当の大して親しくない社員が妙な顔をして手招きをしている。「お客だよ」と言って意味深に口元を歪め、それを見たゲドは会得して机の隅に置いてあった封筒を手に取った。
 その瞬間、その客人がひょいと部屋の中を覗きこむ。
 ヘビースモーカーが嘯笛を鳴らした。
「おいおい、誰だよ? 娘か? 似てねえな」
 金色の髪を揺らせて手を振る場違いな来客に、煙草男は笑顔を作ってひらひらと丸い手を振り返す。友達だと返してゲドは封筒と共に相手の元へと歩み寄った。
 目の前の真っ青な大きい瞳がゲドを映し、笑みの色を浮かべる。
「こんにちは、ゲドさん。お時間宜しいかしら?」
「平気だよ。ここじゃなんだし、外に行こうか」
 15,6歳の制服姿の少女は、乙女らしい可憐な声で感謝の意を表すと、遠方でだらしなく椅子に座る煙草男に丁寧に会釈をしてさっさと歩き出す。ゲドもその後を追い、残された部屋の男達は、その二人の余りに不釣合いな容貌について延々と議論を始めた。
 確かに不釣合いだと、ゲドも少女の後ろを歩きながら苦笑する。
 片や新聞社のしがない社員、片や有名学校の中等部の女学生。無精髭を剃るのも億劫な三十男と、金髪碧眼の可憐な細身の美少女は、一見水と油のように相容れぬもののように思われた。
 中庭の小さなテラスに出る。
 貧相な芝生の上で、陽の光を浴びながら眠りこけている社員が二,三人いた。それに一瞥もくれず、太陽の下に出ると少女は突然振り返った。愛らしい笑顔を作り、この歳にしては長身の体躯ですっと大地に垂直に佇む様は、妙に貫禄があった。
 ゲドは揶揄するように肩をすくめてみせた。
「ご機嫌麗しゅう、お嬢様。わざわざご足労頂いて光栄の至り」
「幸いなことに私はいつでも麗しいの。今度からその社交辞令は省略してくださっても構わないわ、ミスター」
「そうか、ありがたいね。慣れないアイフォン語は舌を痛めるだけだからな」
 言いながら、花のような笑みを浮かべる少女に持っていた封筒を手渡す。
「まあ、これが例の?」
 少女は上品な発音で感嘆すると、その中に入っていた紙をそっと取り出す。その紙面を見るや否や、俄かに眉を顰めて食い入るように見つめた。長い睫毛を幾度か瞬かせる。
 それは紙ではなく写真だった。殆どが真っ黒い墨で塗りつぶされている。
 中央部分に白い影が浮かび上がり、数人の人間が小さな光源を持って佇む様子が写されていた。うち一人は暗い中でも明瞭に識別出来る白い髪――恐らく金髪――をしている。彼らの足元には、はっきりとは写っていないが何かが伏臥しているようだった。
「紙面よりもずっと鮮明だろう?」
「そうね――」
 少女は曖昧に頷くと、その倒れ伏しているらしいものに細い人差し指を当てて見せた。
「これが、死体? 確か娼館の……」
「そう。お気に召したかな? わざわざこんな汚い建物の中に足を運ぶだけの価値は?」
 ゲドが探るようにそう尋ねると、少女は漸く写真から目を上げた。忌まわしい写真を封筒の中に元通り仕舞うと、相手の男に差し出しながら応える。
「まあまあかしら。もっとショッキングなものかと思っていたけれど、あんまり小さいから良く判らないわ。でもお陰でクラスメイトに自慢出来るじゃない、本物見たのよって。それだけで十分な価値よ」
 ゲドは嬉しそうに笑う少女を仔細顔で見つめ、暫くそのまま動かなかった。そして言葉を発する前に口を閉じた。首を傾げる少女に、代わりの話題を探す。
 心に浮かび上がるのは、矢張り先刻の話題だった。
「ソフィア、そういえば君が昵懇じっこんにしている長老さん、グスタフの三番街だったかな?」
「ええ、アレクサンドル様にはお世話になっているわ。それがどうかなさったの?」
 記者は少し逡巡して、後悔するように小さく笑うと首を振った。ヘビースモーカーの言葉を思い出す。神罰は困りものだ。
 しかしソフィアはその煮え切らない態度を訝しく思ったようだった。細い眉を僅かに歪め、ゲドに厳しい視線を送る。
「最初に話題を振ったのは貴方よ。最後まで言ってくださらない?」
「いや――評判の良い人だからさ」
「ええ、当たり前だわ」
 少女は何故か自慢げに胸を張った。「私、副会長なのよ」と付け足し、その言葉の意味が解らなかったゲドは模糊と笑うと高い青空に目を遣る。
 ソフィアも同調するように空を見、眩しそうに目を細めた。柔らかい風が金糸の髪を揺らす。
 封筒を煽って顔に風を送りながら、ゲドが呟いた。
「お兄さんが心配なら、本人に素直にそう言うのが一番だと思うよ」
 その瞬間、ソフィアの顔から花のような笑みが消え失せた。器量の良い作りの相貌は途端に無表情になり、拒絶するような冷たい光が碧眼に宿る。
 そしてつんと顎を上げ、打って変わった尊大な態度を取ると、ゲドの薄い眼鏡の奥の瞳を見据えて言い放った。
「誰がそんな事言った? あんな奴、あたしの知ったこっちゃ無い」
 幾らかトーンを落としたぶっきらぼうな声。
 次の瞬間、ソフィアは再び何事も無かったかのように柔らかな笑みを浮かべると、「見せてくださってありがとう。ご機嫌よう」と小さく辞儀をして踵を返した。ゲドが声をかける間もなく、長い足で滑る様に建物の中へと消え入る。
 残されたゲドは一人になった後も暫くその場に佇んでいた。
 昼寝をしている男の寝言が暖かい空気を伝わって耳に届く。
 やがて封筒に目を落とすと、薄い笑みを口の端に浮かべ、「あれが地か」と呟いた。


  +


 炭酸水に砂糖とレモンを放り込み、ストローを突っ込んで息を吹き込む。ぼぼぼと地鳴りがして歪な気泡が水面で弾け、小雨のような水滴が頬に吹きかかると、漸く雛菊はストローを口から離した。炭酸の弾ける音がまだ聞こえる。家は静寂に包まれているのでよく耳に響いた。
 この場に他の誰かがいたのなら決してしない「下品な」事だが、一人なので何でも出来る。
 暇だ。
 ぐったりとテーブルに頭を横たえ、コップの中の泡をぼんやりと眺めながら冷たい頬の感触を味わう。この時間帯、セルゲイは何時も仕事で居ない。今朝も玄関先で妙な会話をしてから端然と出て行った。段々とこの家での生活に慣れてくると、自分が何をすべきなのかが本当に解らなくなった。
 自分はセルゲイにとって何なのかがまず解らない。
 そうすると自然と自分が何をすべきなのかも不明になる。
 料理はこの世で一番苦手なものだから取り敢えず家中を掃除して回ったが、特に汚れている部屋も無く、毎日雑巾を持って磨いて回っていると自ずとますます汚れは失せる訳である。もう磨く場所が無い。そもそもこの家政婦まがいの事だって、セルゲイに頼まれた訳ではないのだ。
 全体彼は何を考えているのだろう、と何度も思索する。何も考えてないのかもしれない。ああ見えて案外無責任な所があるのだろうか。いや――多分、彼が大人だからだ。大人は自分で動く。与えられたものをこなしてようやく足を前に踏み出せるのは子供だ。自分は、まだまだ子供なのだろう。
(――だから暇なんだってば)
 ごん、と机に額を打つ。
 せめて何かを命じてくれれば良いのに。
 かと言って与えられた役割が明確である娼館に戻るのは嫌だ。
(なんか知らないけど、変なことさせられるんだよね……)
 セルゲイに出会っていなかった場合の現在の自分を想像してみる。明瞭なイメージが浮かんでこない代わりに鳥肌が立った。
「わーやだやだやだ。さあお掃除お掃除」
 わざと大きな声で言うと、音を立てて勢い良く立ち上がり、テーブルに置いてあった三角巾を被って二階へと上がる。廊下の端の窓の下に先ほど汲んできた水桶がぽつねんと座っていた。
 空の光を反射させる明るい水面を覗き込み、縁にかけてあった雑巾に手を触れた時、誰かの声がした。
 動きを止めて耳を澄ませると、どうやら外で大声を上げている。



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