血よりも強く 第3章「夢みる傷痕」
26* 棄 -No more rule-
真っ暗闇の玄関ホールで明かりのスイッチを探しながら、ミネルバは「ただいま」と小声で言ってみた。上からも下からも、何の返事も無い。後ろで支えを失った扉が閉まる静かな音がした後は、全ての残響が闇の中に消えていった。余りの人の気配の無さに首を傾げた時、指先に突起が当たり、軽く力を入れてそれを上げた。
ばちんという音と共にホールに光が満ち――
「うぎゃあ吃驚した!」
ミネルバは二歩程飛び退って胸に手を置いた。
誰も居ないと思っていたホールから伸びる廊下の手前に、セルゲイが佇んでいたのだ。
「うぎゃあ、ね……」
薄い笑みを浮かべて揶揄するように彼女を見ると、そのまま彼はダイニングへと引っ込む。ミネルバはその後姿を呆然と目で追うと、跳ね上がった心臓を抑えながら同じくダイニングへと向かった。
「居るなら返事くらいしなさいよ。こんな暗い中でぼーっと突っ立ってるなんて悪趣味な教義ね、今すぐ改宗しなさい」
「晩御飯はまだ作ってません」
「うそ」
燐の匂いがして燭架に火を灯り、広いテーブルが淡い光に顕わになる。昨夜のように青年の作った良い香りのする夕食の献立はどこにも無く、代わりに焼き菓子の入った白い箱がぽつんと置かれていた。それも半分は無くなっている。腹の虫を押さえつけながら、ミネルバは寂しそうにだだ広いテーブルを見下ろした。
「じゃあ、折角だし皆で外に食べに行きましょうよ。ここ数年、お洒落なお店に入った記憶が無いしね。私の雛ちゃんはどこ?」
貴方のですか、と口の中で呟いてからセルゲイは目の動きで二階の部屋を示した。
「今、虫の居所が悪いようですから、開けてくれないでしょう」
「あらやだ喧嘩したの? 折角レリックについて教えてあげようと思ったのに」
ミネルバは椅子に座りながら一瞬だけ眉を顰めた後、セルゲイに視線を置いたまま口を噤んだ。やがて唇は笑みの形を作り、瞳は妙な輝きを放ち、相手の顔から動こうとしない。それを受けたセルゲイは小さく嘆息した。
「教えてください」
よしきた、と呟いてミネルバは嬉しそうに椅子に座る。
「先天レリックっていうのは、例えば雛ちゃんの目のように初めから神の遺産たる特徴を備えているものの事。後天レリックっていうのは、ある先天レリックを利用して、普通の物に神の遺産たる特徴を付与する事。例えば常世草と白詰草を異種交配させて新しい植物を作り出すとかね。あとは――変異レリック。元々普通のものだったのが、ある切欠で神の遺産となること。雛ちゃんの言っていた折れない刀っていうのがレリックだとしたら、後天か変異かのどちらかでしょうね」
実に息継ぎをたった一度だけ入れた早口で流暢な薀蓄をじっと聞いていたセルゲイは、やがて柔らかく微笑むと、「なるほど」と返した。大学で最も優秀な成績を誇った彼にとっては――本人にとってはそれがうっかりした過ちだとしても――、須らく保有している知識である。しかしもし仮に同じ説明を求められても、彼には彼女程に熱意に満ちた解説は出来ないだろう。
ミネルバは社交辞令で相槌を打つ友人に向かって退屈そうに手を振ると、椅子の背にもたれかかった。
「教え甲斐が無いわね、錫杖授与者は。やっぱり雛ちゃんでないとね」
言いながら、少女と喧嘩をしたらしい友人を僅かな非難を込めて見つめる。
彼はそんなミネルバの言葉を耳に入れていないように、じっと燭台の揺らめく影の辺りを凝視していた。普段から何を考えているのかが解り難い人間だから、こうした僅かな光源の元に居ると益々何を考えているのか解らない。ミネルバは彼が何かを言い出すのを待ったが、彼は佇んだまま微動だにしようとしないようだった。
「ところで、妙な噂を聞いたわ」
沈黙が好きではない彼女は、すぐに痺れを切らした。
「先天レリックをゾルドバス国の企業家や政治家がやたら集めてるみたいなのよ。ただのコレクターと言って差し支えない量らしいけれど、流行廃りの無いこのジャンルに一国の人間が集中して漁るのも奇妙な話よね」
ゾルドバス、という単語にセルゲイは僅かに顔を上げた。
昼に会った狐目の青年の予言めいた不吉な言葉が蘇り、静かにミネルバを見返す。
「あら――御免なさい」
勘違いをした彼女はバツが悪そうな顔で呟く。セルゲイは小さく首を振って、「もう十年でしょう」と呟き、首にかけた念珠に小さく触れた。
「ねえ、少しおかしいわよ。何があったの?」
何が、と口の中で呟いてからセルゲイは火を見つめた。すぐにあの奇妙な青年の事を彼女に話すべきかと考えたが、矢張り踏み止まる。誰にも、要らぬ心配をさせる訳にはいかない。
「別に、何も。ただ慣れていないだけです。こういう――」
両手をテーブルの上で小さく広げて、力なく下へ落とす。目を伏せて苦笑してから、セルゲイは嘆息するように独白した。
「……私も、知らぬうちに色々なものを持ちすぎたという事です」
「そう気付いても簡単には捨てられないって解ってるんなら、貴方も大人になったってことよ。随分遅かったわね。ところで、貴方の得意の手料理はいつになったら作り始めるのかしら?」
そう揶揄するように微笑すると、彼女はそれきりその話題に触れようとはしなかった。エルマー達の置いていった土産物の菓子は、雛菊が手をつけることなくその夜を越すことになった。
まだ暗い内から浅い眠りから覚めた雛菊は、机の上の置時計に目を凝らした。五時。暫く布団の中でじっとしていると、遠くの部屋で窓を開く音が聞こえた。毎日毎日、セルゲイは決まった時間に外を見る。だから今は駄目だ。もう少し待とう。
雛菊は、枕元に置いてある花のネックレスを掴んだ。暗くてよく見えないが、どうやら赤い薔薇のような花が丸い硝子の中に浮かんでいる。この計画が上手くいきますように、と小さく祈る。
彼を、信じられますように。
ミネルバを見送ってから、セルゲイは柱時計に目をやった。七時前、やや曇りがちな空を新聞が心配していた。その活字を目で追うと、どうやら今晩から流星群がやって来るらしい。
今日こそは教会に行かなくてはならない。誰も居ない家に雛菊を置いておくのは、万一の事態が無いとも言えず危険だった。だから、自分の手元に置いておくしかない。
彼女はまた怒るだろうな、と嘆息しながらセルゲイは二階へと上がり、少女の部屋をノックした。堅く軽い音が響き、部屋の持ち主が扉を開けるまでの時を繋ぎ止める。ふと廊下の奥を見ると、昨日から置きっ離しにしてある水桶と雑巾があった。黄昏の幻も、確か同じような場所に居た。
彼はその事を脳裏から振り払う為に、胸ポケットから懐中時計を取り出す動作をした。七時前。先程見た時と変わらない。
しかし、雛菊が出てくるのが余りに遅い事に気が付いた。
もう一度ノックをする。
「雛菊、起きていますか?」
返事は無い。それどころか、中で動く者の気配も無い。
突然訪れた不安に、セルゲイはドアノブを回した。しかし施錠がされている所為で、突っかかるように金属の音が手の中で響くだけで、ノブは一向に回ろうとしない。少し逡巡してから、セルゲイは自室へ戻ると引き出しの奥からマスターキーを引っ張り出して来、再び雛菊の部屋の前に立った。開けますよ、と声をかけてから鍵を回す。かちりと小気味良い音と共に鍵が上がり、ノブが解放される。
「入りますよ、」ともう一度声をかけてから、セルゲイは扉を開け放った。
しかし、
部屋はもぬけの殻だった。
「くそ」
小さく呻くと、セルゲイは中へと足を踏み入れた。布団に触れ、疾うに冷えたその感触に目を閉じて耳を澄ませる。置時計が時間を刻む気配だけが伝わり、彼はこの部屋の持ち主が大分前にここを発ったことを知った。
窓から外を見下ろすと、シーツを二重に結わえてベッドの足に強く縛り、ロープ代わりにして伝い下りた様子が伺えた。しかしシーツはせいぜい窓の少し下までの長さしかなく、そこから下へは飛び降りたようだった。すぐ下は中庭になっていて、月に一度庭師に丁寧に刈ってもらっているから荒れてはいないが雑草は一律に成長している。よく見ると小さな足でそれらを踏んで出て行った形跡が見られた。
(なんて豪胆な事を――)
雛菊がこの高さから飛び降りて怪我もせずに動き回れるなど、そう簡単には想像がつかなかった。
出て行くならば自分が家を出た後の方がずっと楽だったろうに――いや、違う。わざわざこんなリスクを犯すにはそれなりの訳があるのだ。それが何なのかは、今は解らないが。
セルゲイは窓から垂れ下がるシーツを手繰り寄せて窓を閉めると、目頭を押さえた。
そう、自分は色々なものを持ちすぎた。必要なもの以外は捨てろ。教会に行くという執念、少女への先入観、漠然たる不安、ほんの僅かな怒り。これらは必要ない。
目を開くと、セルゲイはシーツを投げ捨てながら猛然と部屋を出た。疾うに家を出たミネルバへの連絡手段は無いから独りで動くしかない。だが、その前に出来るだけのことをするべきだと考え、電話機へと向かうと受話器を耳に当ててレバーを回した。やがて交換台の女性の声が遠く聞こえ、彼は相手先の住所と名前を伝えた。
+
エンデは長い前髪を鬱陶しそうにかき上げると、目の前に座る笑顔の青年にもう一度目を遣った。痩せぎすの細い体はまるで使いものにはなりそうに無く、胡散臭い偽善的な笑顔も好きではない。尤も、笑顔を形成する筋肉が疾うの昔に退化してしまった自分よりは幾らか高尚だと思うのだが。
青年はエンデに倣って癖のある茶色の髪に触れると、愛想笑いを深くした。そして目の前のテーブルの上に置いた白い箱をエンデの方へ押し出すと、まあどうぞ、と言う。歳相応の若々しい男性の声だった。
「ソフィア通りの有名なパイ職人の店で買ったんだ。あんた、好きでしょ? アプリコットパイ」
「まあな。それで、何の用だ。フェオファーン=ツェデルバウム?」
青年――フェオファーンは小さく肩を竦めると、姿勢を正して椅子に座り直す。
「いや、別に用なんか無いさ。ただあんた達エンリルのご機嫌を伺いに来ただけだよ。友達として」
「エンリル?」
エンデは眉を顰めると、小さな声で反芻した。そして会得したように、ああ、と頷くと、ソファに深くもたれ掛かる。
「そんな名前になったのか。いよいよ左遷の離れ小島という訳だな、俺達は」
「違うよ、そんな訳無いのはあんたが一番知っているだろう、中佐」
「どうだか。あの男が俺達を作った理由を知っているか? 『面白いから』だ。そしてお前を生かしておく理由も、『面白いから』。二年程前に生かすべきか殺すべきかと尋ねられた事があるが、あの時首肯していた方が良かったかもな」
すると、ティーカップに手を伸ばしたフェオファーンの表情が見事に凍った。貼り付けた笑顔はそのままで、頬の筋肉を俄かに硬直させ、そこが小刻みに震える。エンデは十二分にその筋肉の動きを観察した後、「冗談だ」と荘厳に呟いた。
「や、やめてくれよ……僕はあんまり度胸が無いんだ、死んじまうよ。あんたに睨まれてるだけでも十分に怖いってのに。いや、ほんとにお茶だけ飲みに来たんだ、信じてくれ」
睨んでいない、と言おうとして彼は口を噤んだ。ソファの上の体は弛緩させたまま、首を捻って隣室を見る。フェオファーンも味の薄い紅茶に眉根を寄せながら、つられてその方向へと顔を遣った。
「クラウン」
エンデが隣の暗い部屋へと声をかけた。青年も目を凝らして中の様子を伺おうとするが、雨戸を閉め、日の光を遮った室内は夜のように黒く、何一つ判然としない。
だが、その中の闇がエンデの声に微かに動いたように思えた。
「具合は? 体の調子はどうだ」
闇は沈黙を保ったままエンデを見つめる。やがて男性の声で、「夢を見た」という言葉が返ってきた。
「夢? どんな」
「エヘルの第一王子を殺したのは、私の名前が確か、ケセドラだった時だ」
エンデは微かに眉を動かし、その質疑と噛み合わない回答に思考を巡らせた。
エヘルというのは、アイフォンゼーベルと隣国のヴァイセーベルが一つの大国だった時の名称だ。しかしそれは400年も昔の事である。ある貴族が強大な力を持ち、エヘル王の地位を脅かした末に国が真っ二つに割れ、現在に至る。その頃は宗教的思潮や文化思潮、民族自立思潮などに拠って領地が『自発的に』分割し国が増えるという事象がよく見られた。今はアッシムカと呼ばれるかつてのキセー帝国も、500年前はエンデの出身地であるゾルドバス国と一つの国だった。
しかし、いずれ昔の話である。
「茶色い髪の、小さな男の子だった」
「お前の名前はクラウンで、今確か三十幾つだから、エヘル王子に会ったのは一体何歳の頃なんだろうな」
「だから夢だ」
どうせすぐ忘れる、と闇は淀みのないアイフォンゼーベルの言葉で続けた。
フェオファーンは身を乗り出し、小さな声で「寝ぼけてんのかな」と尋ねる。エンデはその問いを無視し、変わらず闇を凝視していた。やがて闇が大きく動くと、輪郭を持って人間の形を形成した。
フェオファーンは部屋から出てきた男の姿を見、僅かながら驚愕に似た思いを抱いた。その黒髪の男は細身ながら長身で、もう六月だというのにまるで冬のように服を着込んでいる。左耳には珍しい形の紅玉のピアスをし、そして何よりも目を引くのが、あんな暗い部屋にいたにも関わらず、黒眼鏡をかけていることだった。
「おはよう」
「起きてた」
「そうか」
言いながら、エンデの組んだ長い足を跨ぎ、隣に座る。古いソファの軋む音がして、やっとフェオファーンは我に返った。小さなテーブルを挟んで対峙する二人の男を交互に見、咳払いをする。
「ええと、旦那とは会うのが初めてだよね。ツェデルバウムだ、宜しく」
差し出された手を眼鏡の下から凝視し、男は鷹揚に頷いた。
「知ってる。イフが何時も言っている、
負け犬の人だろう」
「……クラウン」
「ああ、いいよ、キスティね。その通りだ。イフ君か、彼は正確に物事を捉える人だからね」
「お前の目は節穴だな。彼はいつもヒスばかり起こす」
淡々とクラウンが応えると、エンデはうんざりしたように彼の顔を睨みつけた。フェオファーンは差し出した手で軽く宙を掴むと、例の引き攣った笑顔を浮かべる。その時、外から騒がしい音が聞こえたかと思うと、弾かれたように玄関の扉が開いた。
「ほら」とクラウンが呟く。
「また起こしている」
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