血よりも強く 第3章「夢みる傷痕」  27* 難 -You bother me-




「誰だよ、鍵かけたの。面倒臭いから開けとけって言っただろ!」
 エンデはまたうんざりした表情を作って入ってきた青年を睨めつけた。
「子供みたいな事を言うな。閉めたのは俺だ」
「最近、益々子供になったな」
「うるさい、お前に言われたくない!」
 クラウンは隣の上官と顔を見合わせると、首を巡らせて窓の外へと視線を置いた。痩せたおとがいが柔らかな鋭角を示し、癇癪を起こすイフや、呆気に取られているフェオファーンに対する興味を一瞬にして消失したかのような男のその態度を横目で見ると、エンデは重心を前に移して両手を組み合わせた。「いいから、」とテーブルの隅を見ながら低い声で言う。
「黙って座れ」
 青髪の青年はその言葉に押し黙り、憮然としたままエンデとクラウンの正面に座る男に視線を置いた。そして忌々しげに舌打ちをすると、手近に置いてあった古臭い木造の椅子に腰を下ろす。憎しみすら篭った強い一瞥を喰らったフェオファーンは、先程湿らせたばかりの喉が再び干上がるのを感じた。
「エンデ、知ってるだろう。オレは漬物が嫌いだ。それよりももっとキセー人が嫌いで、それよりずっと聖職者が嫌いだ。とっととこの犬の汚い面を何処かへやってくれ」
「安心しろ。お前が嫌いなものもお前を嫌いだ」
 ゆっくりとした発音でエンデが返すと、イフはもう一度舌打ちをして視線を逸らした。汚え、と呟いて顔を歪める。フェオファーンはその端正な横顔に思わず目を奪われた。
 ヒステリーだとクラウンは言った。確かに、いつ会っても彼は一様に安定した感情を見せる事は無い。怒っているかと思えば突然子供のような無邪気な笑顔を作り、次の瞬間全てを憎悪している。
 病、なのだろうか。
 フェオファーンは薄い紅茶を喉に流し込みながら心中で呟いた。彼はイフのこれまでの人生を探るべく深く意識の底まで潜り、陳列されている本棚を見回した。暗闇に浮かび上がる幾百、幾千の背表紙に触れながら目的の物を探す。やがて手に取った書籍には、イヒェルト=イヴに関する客観的な情報が書き記されていた。フェオファーンはその文字列を心の目で追う。
 ……孤児院から士官学校に引き抜かれ、公式上の官位は少尉。実質は特別部隊の一員として活動する。前述したように精神的に不安定な部分があり、他人を殺傷する事に罪悪感を求めることができない。自身に強いコンプレックスを持ち、感情を上手く制御出来ない。その原因を作ったと思われる彼の両親は
「何見てんだ、てめえ!」
 突然、イフが吼えた。
 フェオファーンは意識の深みから一気に引き戻され、自分がほんの一瞬彼の顔を凝視していた事を知った。イフは椅子を蹴って立ち上がり、瞬時に手を動かした。
「よせ、イヒェルト!」
 エンデが腰を浮かせ、
「オレを見るんじゃない!!」
目に見えない速さでイフが何かを投げつける。フェオファーンは瞬きすら出来ず、その銀色に煌く何かが自分の眼前に迫るのを確認し――それが刃だと気付いた時には、鼻の先でくぐもった鈍い音が響いていた。

 白い闇だ、とそう思った。
 やがて目の前に広がる白い闇の真ん中、眼球のほんの一寸先に刃の先端が覗いている事に気付くと、哀れな青年は思わず椅子から飛び上がった。
「――イフ。いい加減にしないと、怒るぞ」
 向かいのテーブルから手を伸ばし、右手でアプリコットパイの箱を突き出したエンデが唸るように言った。その白い箱に、ナイフのように鋭利で細い白刃が突き刺さっている。フェオファーンは、パイを貫通し頭を覗かせる刃の切っ先を呆然と見つめながら、エンデが咄嗟に庇わなかった時の自分の頭部の様相を思い描き、大きく身震いをした。
 脅しや暴力などと言うものではない。
 この美しい青年は、本気で何の躊躇いもなく、自分を殺そうとしたのだ。
 イフは憎悪に満ちた瞳でフェオファーンを睨みつけ、もう一度大きく舌打ちをすると手を引いた。軽い音を立ててパイの箱から刃が抜け、するりと彼の手元へと消えたように見えたが、フェオファーンにはその刃の詳しい造りは全く確認出来なかった。
 エンデは大きく溜息を吐くと、イフの激昂が静まったのを見定めるように静かにソファに腰を下ろす。
「お前、昨日からどうかしてるな。異常だと言っていい程に気が立っている。その上、余計な人死にを出した事に対して反省する素振りを欠片も見せない。……もう、お前は動くな。命令だ」
「悪いのはこいつだろう! オレの事を醜いと思ってやがるんだ、そういう目で見た」
俺の命令だ・・・・・
 静かで、それでいて絶対に有無を言わせないような重低音に、イフは一瞬だけ迷子の子供のような表情を作り、その後もう一度フェオファーンを睨めつけた。
負け犬キスティが」
 そう吐き捨てると、くるりと背を向け、荒々しくドアを閉めて出て行った。震動で部屋が微かに揺れる。首を竦めながら、おっかねえ、となんとか声を絞り出したフェオファーンをエンデが一瞥した。
「すまん」
「本当のことさ。あんたが謝ることはないだろう。その、ありがとう」
 男は疲れたような微笑を浮かべ、箱を開けて中を覗き込んだ。「二段重ねか」と呟き、テーブルの上に置く。無残にも真ん中に歪な穴の開いたアプリコットパイが、芳醇な香りを放ちながらその顔を見せる。
「ああ、奮発して高い方のパイを買って正解だったよ。死ぬ所だった」
「イフは」
 それまで微動だにせず窓の外を見つめていたクラウンが、何事もなかったかのようにぽつりと口にした。その時初めて、フェオファーンは彼が今の騒動の渦中にもこちらに一瞥すらくれていなかっただろう事に気付き、先程とは違った種類の寒気が背を這い上がるのを感じた。
「自分が世界で一番醜いと思っている。だからヒステリーを起こす」
「扱いに困る」
 ああ、とフェオファーンは曖昧に頷き、エンデのその言葉がどちらの男性に対して向けられたものかという事を考えた。恐らく、両方だろう。
 彼の知る限り、エンデ中佐はそれなりに不幸な経歴を辿っている。二人姉弟で親は無く、義兄を事故で亡くし、そのすぐ後に姉も病死している。十年前の戦争にも最前線に駆り出され、漸く戦の疵が癒えた頃には唯一の肉親である姪が病で頭をやられた。
 ここからは自分自身の憶測だが、エンデは恐らく軍に対して憎悪を抱いている。少なくとも、忠誠心は無いように見受けられる。最高幹部である人間を『あの男』呼ばわりするところからも、その事を隠すつもりすら無いらしい。そんな人間が、何故特殊部隊エンリルの頭をはり、こんな残酷で無茶な任務を、甘んじて受け入れているのだろうか。
 自分なら、とフェオファーンは考える。
 恐らく、自らにとって大きな利点がある故に同じく相手を利用する。どんな辛い事も、痛む疵も、自分の望むべきものを失う以上の苦痛を伴うものではないのだろう。エンデ中佐は、そういう意味で恐ろしく強い男だ。自分なら、絶対に敵に回るような事はしない。
(――最初はなっから敵かな。大変だね、長老)
 守るものの多い者と、たった一つ以外全てを捨てた者。
 その中で、自分は中立でなければならない。決してどちらかに強く傾いてはならない。それがルールだった。
 ルールだった、はずなのだが。
「何を考えている? ツェデルバウム」
 矢庭に下から自分に視線が注がれている事に気付き、フェオファーンは咄嗟に笑顔を作った。先刻と同様の質問をしたエンデは、碌な回答を期待している訳でも無いように、すぐに隣のクラウンに目を遣った。彼は相変わらず黒眼鏡でパイの表面の狐色を見つめている。黒髪に黒眼鏡、服も黒、まるで夜のような男だ、とフェオファーンは脳裏に浮かんだ良いフレーズに一人頷く。
「なあ、旦那。部屋の中では眼鏡は取った方が良いと思うよ。真っ暗で何にも見えやしないんじゃないか?」
 クラウンはにこりともせずに小さく首を傾げた。「怖いからな」と呟き、困惑する青年を眼鏡の底から見つめる。
「何が怖いんだい。彼みたいに、見られることが?」
「怖がるんだ。――お前が」
 言いながら、何時の間にか上がっていた右手が静かに眼鏡を持ち上げる。そこに現れたものを見て、フェオファーンは一瞬にして目を奪われた。驚いた様子を隠すことすらせず、石の様に体を硬直させてそれを凝視する。
 ――なんてこった。
「クラウン」
 エンデが非難めいた声を出し、再び瞳が黒い硝子に覆われると、漸くフェオファーンは咳払いをして身じろぎした。先程からずっと佇んでいる体が妙に空虚で手持ち無沙汰に感じられ、体を軽く捻る。
「そうだな、人の趣味だからね。旦那が良いっていうなら僕の出る幕じゃない。邪魔して悪かったね」
「別に」
 彼は玄関のドアに向かいながら、取り繕うように二人に笑ってみせる。茫洋とした男は既に彼に興味を無くしたのか、部屋の中の何もない所をぼんやりと見つめていた。体を半分外に出し、「似合ってるよ」と最後に声をかけてから、フェオファーンは扉を閉めた。
 涼しい風が首筋を撫でても、彼は暫く扉に手をかけたまま動かなかった。じっとりと汗をかいた鼻の頭を一撫でして、笑みを浮かべようと口元を歪める。
 ――なんてこった。
 もう一度心の底で呟いた。扉の向こうにいる二人の男の顔を脳裏に浮かべてから、今度こそその場を離れようとする。雨雲を運んでくる湿った風の匂いを嗅ぎながら、強く鳴る心臓を抑えて歩道を俯瞰した。前に出そうとする足の筋肉は痙攣し、億劫だと叫んで動こうとしない。
 歩き出すのを諦めて真珠色の空を目を細めて見上げても、瞼の裏に焼きついた映像が離れることはなかった。
 それ程までにクラウンの、血のように赤く輝く左目の色は鮮やかだった。
「ツェデルバウム」
「うわああ!」
 突然ドアが開いて、灰色の髪の男が部屋から顔を出す。彼はフェオファーンの過剰な反応に僅かに目を細めると、ところで、と口にした。
「お前がどう動いても構わんが、俺達の邪魔をするなら殺す。あの男の命を待たずに。――と、脅しをかけるのを忘れていた。気を付けろ」
「あ、ああ……。ご丁寧に、どうも」
 笑顔を作って、小さく辞儀をする。やっと覚醒した足を動かし、微かに軋む関節に眉を顰めた時、背後から静かに声が聞こえた。
「私事か? 公務か? 記録する者よ」
 フェオファーンは足を止め、声の主を振り仰ぐ事もせずにじっと僅かに湿った空気の先を見つめる。たっぷり一呼吸ぶんの沈黙を保った後に、「趣味だ」と答えると、足を一歩前に踏み出した。


「良いのか」
 エンデはその問いには答えず、窓の前に立った。暗澹とした白い空の果てからは、もうすぐ荒涼とした風がやって来るように見受けられた。彼は暫くの間沈黙を生み出した後、口を開いた。
「エヘル王子は最期に何と言った?」
「親の名前を」
 クラウンの視線を横顔に感じながら、彼は遠い目で大気を凝視し、僅かに俯いた。気狂いめ、と口の中で呟いてから窓に背を向けて奥の部屋へと向かう。
「閣下に定時連絡だ。何か言う事は?」
「無い。道化クラウンは彼ではなく、お前に従うものだから。姪御によろしく」
 中佐は物言わず口の端を僅かに上げ、部屋の中に滑り込むと、小さな音を立てて扉を閉めた。


  +


 ジャックは椅子に座ったまま前方に聳える書類の山を凝視し、昨日の恋人の言葉を思い出していた。
 正確な台詞は全く思い出せない。この東奔西走の激務の最中に呼び出され、多少苛立ちながらも、久しぶりに見たその柔らかな顔に癒されたのは事実だった。銀行員として働く彼女は才媛で、しかしこのご時世にそういった職業を獲得出来る女性にありがちな刺々しさや高慢さは欠片も無い、寧ろ少しぼんやりとした少女のような女性だった。
 待ち合わせ場所に現れたジャックの青い顔を見ながら、彼女は訥々と語り始めた。苦渋の色を顔に浮かび上がらせ――そして彼が彼女の語る聞き慣れない異国の詩のような旋律を脳裏に上滑りさせると、あっけなく別離は訪れた。
 ジャックは書類を一枚、手に取った。
 文面を読もうと努力しても、それは矢張り昨日の恋人の言葉と同じく、見慣れない異国の詩のようだった。
 刑事だから。忙しいから。余り会えないから。苦しいから。
 そんな事を言っていた気がする。
 不思議なことに、結婚まで考えていた間柄だったはずが、この突然の一方的な別れの宣言に何の感情も湧いてこない。余りにも疲れていた。疲れ過ぎて、自暴自棄になっている。判断力も鈍っている。それは自分でも解っているが、それすらもどうでも良いのだ――。
 書類を山の上に戻すと、椅子の背に凭れ掛かって薄汚い天井を見上げる。目尻を掻きながら、仮眠室へ行こうかと考えた。どうせ悪夢を見るだろう。しかしこのまま倒れて死ぬよりはマシだった。
 その時、ドアが開いて誰かが部屋へ入って来た。
 億劫に顔を遣ると、金髪の青年が紙と鞄を持ってこちらへ歩いてくる所で、その顔は僅かに輝いているように見える。ジャックは黙って相手の姿をただ瞳に映し続けた。
「銃で殺された二人の共通点が解りましたよ。旧キセー帝国の、最左翼の一員でした」
 開口一番そう言ったナイトの声音には、やっと光明が射し始めた事件への期待を含有していたが、ジャックは無感動に脳裏で相手の言葉を反芻するだけだった。
 それから仮眠を取る機会を奪った刑事に対する非難を込めて、小さく唸ってみせた。



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