血よりも強く 第3章「夢みる傷痕」  29* 憖 -Please tell me-




 そういえば、お互い寮暮らしの中で偶に食事を共にする時、彼女はぽろりと零していた。憧れている男性がいると。
「お前が熱を上げてる男って、あいつの事だったのか? やめろ、馬鹿馬鹿しい。良い奴なんて他にもいっぱいいるだろ」
 セルゲイ=アレクサンドル。
 どこに行っても彼ばかりだ。
 黎花の娼婦を買ったのも彼、殺人の嫌疑がかかったのも彼、水底のような瞳で屍体を見つめたのも彼、僅かでも自分が憧れたのも彼、そしてアッシムカ人なのも彼。
 彼は――。
 彼は、どちらだったのだろう。
「なんであの方の事知ってるのさ」
 ナイトのぶっきら棒な返答に、ソフィアはやや憮然とした面持ちで問いかけた。
 あいつは、と言いかけて、ナイトは口を噤んだ。目の前に立つ少女が異様なほど幅広い交友関係を持ち、噂好きで、余り口が堅くないことを思い出したのだ。
「いや、なんでもない。まあ色々あったんだよ」
「もしかしてアレクサンドル様のこと疑ったりしてないだろうね。疑い損だよ、あの人はそんな事する人間とは百八十度違う場所に居るんだから」
「そうだな。自分の居場所に居心地良く座っていられるということは偉大なことだよ。その点につき、彼は尊敬に値する」
 そしてまた羨望にも。
 ソフィアは訝しげな表情を作り、上半身を乗り出して兄の顔を凝視した。ナイトはソファに体を預けたまま、力無くその視線を受け止める。彼女が自分の煮え切らない態度に何かを察知したであろうことは容易に想像がついた。
 父さんが、とナイトは独り言のように口にした。
「どうしてもオレの職業が気に食わないらしい。何時だって父さんの手を煩わせないように援助を受けないようにしてきたのに、あの人にとってはオレがナイトであること自体が煩わしいんだな。ヴェルドハイドでいて欲しいんだ」
 自ら口にした忌々しい名に自然と顔を顰め、ナイトは目を閉じた。
 柔らかい闇の向こう側で、ソフィアが躊躇した様子が伺えた。彼女は、ソフィア、マルナタリア、どちらの名も器用に使い分ける。自分には出来ない。ナイトも、貴族名であるヴェルドハイドも、結局は彼にとってはただのナイトにしかなり得ない。
「兄貴、血のさだめには逆らえないんだよ。誰一人。望む望まず良き悪しきに関わらず」
「お前も、オレがこの場所にいることに反対なのか?」
「あたしは――」
 妙な倦怠感が体を襲い、ナイトはこのまま眠りの淵に落ち込んで行こうかと考えた。煙草の匂いの染み付いた硬いソファが嘲笑を上げ、何もかもを放棄したくなる。自分がどうしたいのか、何が欲しかったのかすら深淵に消えてゆく。
 戻るのか――あの館へ。
「あたしは、兄貴はさだめに対して責任を負うべきだと思う。好きな事をやればいいなんて言えない」
 ナイトは目を閉じたまま自嘲的に口の端を上げた。
「分かった、マルナタリア。帰れば良いんだな?」
「違うよ、そういう意味じゃない! あたしは」
「……なんであんな処に生まれたんだろうな、オレみたいなのが」
 ソフィアが腰を浮かせて何かを言おうとした直前、ドアが開いた。ナイトは一気に覚醒し、ソフィアと同時にそちらへと顔を向けた。部屋を覗き込んでいるのは先程の婦警で、ナイトに対して顔の隣で軽く握り拳を作って振って見せる。彼宛ての電話が入ったという合図だった。
「誰から?」
「友達ですって」
 怪訝に眉を上げるものの、億劫に体を起こすと彼は電話機のある部屋まで急いだ。ソフィアも黙って後ろをついて来るが、咎める気も起きない。今の会話を引き継いだ、重苦しくぎこちない空気が邪魔をしているのだ。
 机に並べられた電話機の前に座ると、受話器を耳に宛がい、拾音器へと顔を近付ける。微かなノイズが黒い金属の向こうから聞こえてきた。
「はい、ヨークですけど」
 そして返ってきた相手の声を聞き、ナイトは心底うんざりしたような顔で非難がましく応えた。
「誰がいつ貴方の友達になりましたか、アレクサンドルさん」
「え、うそうそ」
 途端に表情を輝かせたソフィアが嬉しそうにナイト――の宛がった受話器の向こう側に居るセルゲイを見つめる。ナイトにはそれが余計面白くなかった。
「で、何でしょう。何か有益な情報でも頂けるのでしょうか」
『残念ながら逆に有害です。うちの雛菊が今朝から家出をしてしまいましてね』
 はあ、と気の抜けた返事をしながらヒナギクという少女の不安げな顔を思い出す。歳の割には小さく見える娘だった。
『申し訳無いが、探して頂けないでしょうか』
「居なくなったのは今朝でしょう? すぐ帰ってくるかもしれないじゃないですか。すみませんがその程度では警察は動けない事になっています」
「居なくなったって、雛菊が?」
 ソフィアの声を無視して、ナイトは耳を澄ませる。そう言えば、先刻彼女が言っていた変な友達とはあの少女のことだったのだ。
 相手は黙っていた。うなじにソフィアの非難がましい視線が刺さるのを感じながら、彼は苛々とセルゲイの言葉を待つ。ついに「セルゲイさん、」と痺れを切らして呟いた。
「俺だって力になりたい。けど、こっちも正直手が空いていないんです。グスタフ通りの警邏の人間に伝えるだけ伝えておきますけれども」
 言いながら、口の端を吊り上げる。
 今しがた刑事を辞任しようとまで考えた自分が、この科白を言うとは。
『まさか、気付いていない訳ではないでしょうね』
「何がですか」
 そこでもう一度黙って、逡巡するような間を置いてから、電話先の長老は何時もと変わらない調子で続けた。
『あの子の名前と瞳の色を見たでしょう。彼女は黎花の焔蓮華の人間です』
「ほむら……。焔蓮華? 黎花?」
「ああ、まだ言ってたの。嘘でしょ? 元お姫様だなんて」
 ナイトは脳裏で蓄積された情報を総動員させ、言葉の断片を一つの事実に形成させた。それは俄かには信じ難い形であったが、今までよく見落としていたものだと我ながら驚くほどにそこら中にサインが散らばっていた。本気ですか、と口の中で呟いてから眉間を指で押し付ける。
「どうして黙っていたんですか……。一大事ですよ」
『ですから黙っていたんです。大層な事情がありそうですし、私自身も殆どそれを把握していません。彼女は秘密主義者なんですよ。そちらの判断はお任せしますが、誠意ある対応を期待します』
 秘密主義なのはどちらなのか。相変わらず流れる様な静かな語り口だったが、どうやら嘘はついていないようだとナイトは直感で感じた。
「あんた、やっぱり嫌な奴だな」
『ありがとう。君は目が高い』
 電話を切ると、ナイトは口元に手を宛てて考え込んだ。
 倦怠感と引き換えに、腹の底からなんだかよく解らないざわついた波の音が聞こえてきた。腹が立つ、ではない。見返してやる、でもない。
 徐々に覚醒しつつある脳裏で、漸く彼は辿り着いた。到着地ではなく、始発地点に。
 自分が望むものは、何事にも無感動に見せる外面ではなく、濁流の中をもがきながら喚きながら飛沫を弾き疾走することの出来る覚悟なのだ。
 たった一つの、その覚悟だけ。

「ねえ、雛菊がどうかしたのかってば。焔蓮華なんて嘘だろ?」
 そういえば奇妙な目の色をしていると思った、とナイトが独り言のように呟くのを聞き、ソフィアは眉を顰める。兄は彼女への返辞を保留したままに踵を返すと、足早に警邏課へと向かった。廊下に出る直前に電話機の前で佇んだままのソフィアを振り返り、「気を付けて帰れよ」と言い置いてから姿を消す。
 そして間髪入れずに再びドアから顔だけ覗かせ、
「あいつはやめとけ、悪い事は言わない」
と眉を上げて念を押してから今度こそ出て行った。木造の廊下を打ち鳴らす強い足音は、すぐに遠ざかる。
 ソフィアは長いこと眉を顰めていたが、やがて肩を落とす。「勝手に撃たれて死んだら本気で怒るからな、」と口の中で呟いたが、当の本人には聞こえているはずがない。机上の黒い金属の物質を指先で撫で、じっと煙草の煙で煤けた壁を見つめる。
「焔蓮華……」
 思い出したようにそう口にして、すぐに踵を返した。
 兄と同じような足音を鳴らせ、廊下へと出る。歴史の教師が春風邪をひいてくれたことに感謝した。お陰で、今日の授業は昼近くまで休みなのだ。


  +


 空っぽの腹が大きな悲鳴を上げる。雛菊は思わず周囲を見回して、誰もその音を拾った者がいない事を確認して腹に手を置いた。よくよく考えたら、もう丸一日何も食べていない。昨晩は下から美味しそうな夕餉の匂いがしてきたし、セルゲイが何度か誘いに来たが、返事をしなかった。
 その度に胸が微かに痛んだが、仕方が無い。悪いのはセルゲイだし、そして自分だった。
 白い空を仰ぎ見て、遥か遠くの万年筆のような時計塔を目を細めて凝視する。まだ昼には僅かに届かない時間のようだった。視線を手前に戻すと、黄色や橙色といった暖色系の天蓋が目に入る。
 露店商が並ぶ通りにやって来たようだった。
 早い昼飯を取りに来た者や、調理の材料を買出しに来た主婦などが大勢群がっている。店も、青い果物を山積みにして大声で呼び込みをしている所から、湖で取れた淡水魚や貝の生臭い匂いを漂わせている所、安物のペーパーバッグを陳列させている所まで、多岐に渡っていた。
 手前の店では香ばしい香りのする焼いたトウモロコシを売っていた。雛菊は思わず立ち止まって居並ぶその綺麗な黄金色を凝視する。表面は所々が黒く焦げ付いていて、そこから香る濃厚な匂いに頭が眩々とした。壮年から足を一歩踏み出した店主が雛菊を見咎め、持っていたトウモロコシを軽く掲げてみせる。雛菊は両手で自分の体を叩き、何一つ硬質な音が聞こえない事に柳眉を下げると、俯いて足早にその場を去った。
 嗚呼、なんて馬鹿なんだろう。私はこんな時さえ、セルゲイが与えてくれる物が無いと何も出来ない。
 前のめりになって道を歩き、人ごみを掻き分けながら、既に心は後悔に満ちていた。何故、こんな子供みたいな事をしているんだろう。何故、あんなくだらない計画を思いついたんだろう。セルゲイにとって自分が何なのかを聞き出したい。しかし、今やっている事は母親の気を引く為にわざと高い木に登る幼児と一緒だ。大切なら必死に降ろそうとするし、懸命に登ってくるだろう。そう思って、わざわざこれみよがしに二階からこっそり飛び降りた。
 嗚呼、なんて馬鹿なんだろう。
 雛菊は今更湧き上がってくる羞恥に顔を赤くし、このくだらない子供じみた計画の穴を直視しないように努力した。しかし、見るなと思えば思うほどそれは目につく。
 家出してこれからどうするというの?
 こんな広い街でセルゲイが自分を見つけてくれるとでも?
 いや、彼は演技でも本心でも、そうやって探し出そうとしてくれるだろう。
 だったらその後は? この計画で何が解るっていうの?
(自分の馬鹿さ加減だけよ、素晴らしい計画。最高)
 苛々と小石を蹴る。小さな石は道行く人の踵にぶつかってどこかへ弾けて消えた。
 ふと彼女は、自分に子供の頃から何かあるとすぐ家を飛び出して辺りを放浪する癖があったことを思い出した。娘があんまり飴ばかり食べるものだから、母が怒って手の届かない食器棚の一番上の引き戸に菓子類を隠した時や、大好きな子供向けの無線放送の時間が来たのに昼寝から目覚めさせてくれなかった時、雛菊は歯を食いしばって外に逃げ出した。飴は雛菊にとって生命の泉だったし、先週人間に捕まった犬のとらじが――犬なのに虎なのが彼女は気に入っていた――どうなったのか、何よりも気になる事だった。
 右手に握り拳、左手にお気に入りのぬいぐるみ、冬でも暖かい風。近所の小さな森の入り口で、頭の中で文句を言いながら切り株に座ってじっと待つ。
 そう、待っていたのだ。母親が眉を吊り上げ、しかし苦笑を隠しきれない口許をしながら切り株まで迎えに来る事を。これまでの所、彼女は十割の確率で娘を連れ戻しにやって来た。その例に漏れず、アルファは夕暮れ前の真赤に染まった空を背に、悠然と雛菊の前に現れ、手を差し伸べた。
 結局、とらじは次の週では元気に洞穴の宝物を探しに出かけていて、どうやって助かったのかは解らなかったけれど、雛菊はもう何とも思わなかった。自分が憤慨している事を表し、相手が笑いながら頭を撫でてくれるという儀式こそが重要だったのだ。
 まさか十五になってまで、しかも赤の他人に対してこの儀式を提案するとは、我ながら呆れる。今から考えれば、誕生日に街を彷徨っていたのだって、同じことだったのだろう。亡き母の代わりに、世界に対して甘えていたのだ。叩けば無償の愛で応えてくれる者など、もうどこにもいないと知っていたはずなのに。

 少女は嘆息して歩みを止めた。
 帰って、謝ろう。今なら笑顔で許してくれる。ママみたいに私を部屋に閉じ込めて、ごめんねと言いながら優しく笑ってくれる。
(どうしてかな。ママは私を愛してくれていた。でも外には余り出ちゃ駄目だと言った。昨日のセルゲイみたいに)
 雛菊は足元を見つめたまま立ち竦んだ。やっぱり駄目だ、と呟く。
 母にとって自分は娘で、自分にとって母は母だった。ちゃんと愛されていると知っていたし、だから何を求められても、何の躊躇いも苛立ちも無く受け入れられた。でも、セルゲイは誰だろう。セルゲイは母ではない。つい一週間前に出会ったばかりの、知らない大人だ。帰る場所があるなら、こんな所にいない――そんな場所だ。
 だから、知る必要がある。例えどんなに子供じみた行動を以ってしても。
 雛菊は再び足を前に出しながら、湿った風に顔を上げた。
 今すぐにでも謝罪と後悔の言葉がついて出そうな口を引き結びながら。



back | | next