血よりも強く 第4章「竜葬流星群」
37* 死んでしまった空
雛菊は南瓜のスープを一口だけ口蓋に含むと、飲み込む前にスプーンを皿に落とした。銀の円盤が明るい橙の中に沈むのを見届け、ゆっくりと喉に流す。暖かな流れが体に染みこむ様に沈下するのを感じながら、そっと皿を脇に押し遣った。
机の上には相変わらずランプと陶器の時計だけが置かれていた。一人で部屋で食べると言った時、二人は何も言わずに料理を持ってきてくれた。セルゲイの料理は何時でも美味で、こんな時だというのに却って普段よりも旨く感じられる。それでもその全てを食べきる気にはならなかった。
椅子の背にもたれ掛かってランプの灯火を見るでもなく眺める。体は重く、今すぐ何かをする気にはならなかったが、それに反比例して意識は奇妙な程に明瞭としていた。父も叔父も撃ち殺されたという事実の前に、不思議と涙は出てこない。心が悲しみに追い付いていない感覚がある。
今雛菊の胸中にあるのは、悲哀というよりも寧ろ嬉しさにも似た感情だった。ミネルバとセルゲイという人間達は、雛菊が失ってしまった大切な人達の再来を彷彿とさせる。自分のことを心から心配してくれる者の存在は何よりも心強く、感謝すべき事だと思う。
明るい色のスープの水面を見つめていると、昼に見た露天商の鮮やかな天蓋が脳裏に浮かんだ。空腹に鳴る腹を押さえるしか術のない自分は、自ら何も生み出す事も出来ずにただ幼稚な感情を外界に向けて発散させた。そして、彼はそれに応えてくれた。
青髪の青年から逃げ、脇道をがむしゃらに走って大通りに出た時、視線は自然とある一点に集束された。それは遠く、人の波の粒子の一つに過ぎなかったはずなのに、雛菊にはそれがセルゲイの後ろ姿であることが瞬時に判った。例えば黒く雄大な星空の光の中で一筋の小さな流れ星が閃くように、注視せずとも当たり前の如く眼窩の奥に焼き付く。
やっと理解した。
今の自分の居場所は、紛れもなくこの屋敷にあるのだと。
置時計を手元に引き寄せる。円盤形の時計の周りは白い葉と花が覆い、両隣には樹が幹の半分まで描かれている。ここはきっと森で、周囲には沢山の木々が林立しているのだろう。その前では四人の少女達がこの世のものではない優雅なダンスを披露していた。雛菊は彼女達に名前を与えていた。前面で一番上手に踊っているのがサラ、その隣で廻る顔の俯き加減が美しいのはローズ、後ろで前の二人を見ながら靴を脱いでいるジョージ、樹にもたれて楽しそうに手拍子を送っているのは一番気の弱い伊奈。他の三人は北洋の人間の顔をしているが、伊奈だけは黎花人の面影がある。
雛菊は伊奈が一番好きだった。白い庭で優雅に踊る少女達、それを眺めて嬉しそうに手を叩く彼女は、本心ではきっと自分も一緒に踊りたいに違いない。靴を脱ぐところまでは容易に出来た、けれどその先が出来ない。一歩前に踏み出して、サラの隣で踊り、ローズの手を取りジョージと輪を作る事が出来ない。私は皆のダンスを見ているのが一番好き、と言って臆病を微笑で飾っている。けれど、臆病は罪ではない。そして伊奈は靴を脱ぐことが出来た。だからきっと、いつか、今ではないいつの日か、彼女は踊る事が出来るのだろう。けれどそれは今ではない。だから雛菊は伊奈が一番好きだった。
人形に名前を付けている事を知られたらどう思われるだろう、とふと顔を赤らめる。想像するまでもない、セルゲイは微笑を浮かべながら真面目に言うだろう、良い名前ですね、と。多分彼はジョージを好きになると思う。けれど、彼がジョージの名を知る事は無い。雛菊は永遠に彼女達の名前を誰かに打ち明けるつもりは無かった。
同様に、言いそびれたままの礼の言葉は、まだ心の中で沈黙を守っている。一度機会を逃してしまったものは、どんな事であれ再び陽の目を見るのは難しいものだ。
言わなくてはいけないありがとうの言葉は、山ほどある。時計をくれたこと、家を与えてくれたこと、探しに来てくれたこと、居場所をくれたこと。
その時、唐突に叔父夫婦の事を思い出した。
叔母は――アルファの妹オメカは、とても美しかった。けれど病弱で、不幸だった。雛菊の母であるアルファが亡くなるずっと以前からもよく臥せっていたし、目も耳も自由とは言えなかった。その上に夫であるレンドラから愛されているとは言い難かったのは、幾ら子供であろうとも理解出来た。それでも何時も慈しむような双眸で遠くを眺めるオメカは優しく、同じくらい寂しそうだった。雛菊はそんな神秘的で物憂い女神のような彼女に、憧憬を抱いている。今も昔も変わることなく、死してなおその思いはより深くなってゆく。
アルファが亡くなって暫くして、彼女も危うくなった。名前を分かち合うように、姉妹は命までも分かち合ったようだった。青い顔で毎日病院に見舞いに行っていた雛菊に対しては気丈に優しく微笑む。
そして、よく言っていた。
――想いは伝えなくちゃ駄目よ。
――でないと、いつか枯れて独りで死んでしまうから。
――それじゃああんまり、可哀想じゃない。
オメカがレンドラではない男を懸想していたのか、それとも全く別の人生の教訓からかは解らない。どこか諦観している、清々しいまでに空虚な秋の空を思わせる色をした目で、雛菊をじっと見つめた。雛菊は、理解した。そして叔母の手を握って、涙を堪えた。
想いは伝えなければ、それはきっと寂しく死んでゆく。
なんて、可哀想。
椅子から立ち上がって窓の前に佇む。霧の中の街灯が冷たい光芒で闇を切り裂いている。
スープで湿らせたはずの喉はからからに渇いて、痛みを帯びた嫌な感覚が脳髄にまで届いた。
(私、言ってない。パパに何も言わずに、何も伝えずに、終わってしまった)
死んだのは父だけなのだろうか。彼に対する言葉にならない多くの想いも、死んでしまったのだろうか。今でもくっきりと心に輪郭を浮かび上がらせる事が出来る、父に対するどうしようもなく強い想い。けれども、それはすでに屍であることが彼女は感じることが出来た。
伝えるべき相手がいなければ、それは自分の中で静かに沈み凝ってしまう。それは死にも似ている。
どれだけの季節を越えれば、屍は風化し憩える大地へと眠るのだろうか。
少なくとも、それは今ではない。今はまだ、身を裂くほどの苦しみに耐えるしか無いのだろう。
額を窓硝子に押し付け、漆黒の夜空を見上げた時、ぎしりと廊下が鳴った。振り返ると、灯りの落ちた二階の廊下への扉が大きく口を開けている。ただの家鳴りも、揺曳するランプの灯火と合間って、異様な圧迫感を与える。
セルゲイは扉を開け放しておくようになった。そうすれば雛菊が何時でも不自由なく行き来する事が出来るからであり、彼なりの当然の配慮であったが、少女にしてみればそれに安堵を感じると共に焦慮もつのる。普段通りにノブを回して扉を押し開けるという一連の動作が出来なくなってしまった事が、不思議で恐ろしい。開け放たれた扉はその捩れた不可思議を加速させる。
ぽっかりと穴を開けた廊下へ出て、口を開けた闇の出口を探した。時折玄関の外から小さな話し声が聞こえる。先程の刑事達が入れ替わり立ち代わりホールと外を行き来しているようだった。
闇の出口は最奥の部屋であり、セルゲイの部屋だった。
そっと足を忍ばせて覗き込むと、一階にいると思っていた青年は寝台の端に座り込んで空気を見つめていた。柔らかな横顔は無機質で、道路の街灯の青い光に浮かび上がる輪郭は陶器の人形と同じ色をしている。
何か深く物思いに沈んでいるような、若しくは何一つ存在しない空白の世界に心を置いているような、そんな相貌を雛菊は知らない。けれども、何も見ていない瞳は同じだった。セルゲイは何時もと同じ瞳で、今は何も映していない。
知らない人だ、と雛菊は思った。
声をかける事も惜しまれる。きっと今この瞬間に、誰もこの世界に存在してはいけないのだ。
彼と彼の中の世界だけに流れる、不可侵の時間。
自分が閉じ込めていた風散の思い出と同じ、誰も壊す事の出来ない刻。
雛菊は身を引いて宵闇に姿を溶かした。静かに部屋に戻り、布団に包まる。柔らかな毛布は暖かく、心地が良い感覚に目を閉じながら、叫びだしそうになる喉を強く閉ざした。
私も、閉じ込められれば良い。誰も侵す事の出来ない鋭利な世界に、閉じ込められてしまえば楽になれるのに。
だが、彼は雛菊などを受け入れられるはずがない。雛菊も自分が隔世の世界に耐え得るほど綺麗だとも思わない。だからこんなつまらない迷夢は雨の所為にして、流星と共に流れればいいと思った。
そして早く笑えるようになりますように、と見てもいない星に願う。
それは無理だということも解っていた。
朝はすぐ明ける。黎明の紫色の空を一瞥すると、セルゲイは起床したばかりの髪をあちこちに散らかしたミネルバに告げた。
「少し出てきます」
普段通りの穏やかで静謐な瞳の色に、ミネルバは暫し沈黙した後、髪に手櫛を入れる。
「……どこに?」
おざなりに問い返しつつキッチンに入り、自分の為というよりも、ホールの椅子で転た寝をしているジャックの為の紅茶を淹れる。彼らは寝台や食事を要求することも無く、用意出来るものは全て自前で揃えたようだった。ミネルバやセルゲイが夕食の際に声をかけても頑なに首を横に振った。詳しくは知りようが無いが、そういう決まりだということらしい。
法治国家は平和と引き換えに面倒が多いと肩を竦め、ティーポットに手をかけた時、リビングのセルゲイからまだ返答が無い事に気付く。
セルゲイは遠くを見ていた。
否、何も見ていなかった。
淡い宝玉のような瞳には景色が映るが、それでもその目は何も見ていない。深い思索に沈んでいるようにも、自失しているようにも見える。ミネルバは黙して相手の様子を伺った。こういう時は、外界でどのように刺激しても無駄なのだ。例え先生が怒ろうとも、級友が拳を振りかざそうとも、彼は決して反応しなかった。
そしてこういう時は――彼の動き出す予兆を示しているのだ。
おもむろに彼はミネルバを振り返ると、では、と言って踵を返した。
「どこへ行くの? 雛ちゃんの側に居てあげなさいよ」
「残念だが今の私は無力です。彼女にとって何の気休めにもなりません。ですから、出ます。守らなくてはならないものを総て守ってみせます」
穏やかな光の灯った目で、友人を振り返る。ミネルバは小さく嘆息して、もう一度髪を梳いた。
「隠さなくてはいけないことも?」
セルゲイは返事をしなかった。微かに微笑むような、そんな表情の後に彼女から視線を逸らせて玄関へと向かう。
「貴方が何を墓場に持って行こうとしてるか知らないけど、それが善良な嘘ならなんでもいいわ。でも、裏切ることと傷つけることだけは許さない。雛ちゃんにも、私にも」
扉を開ける直前、玄関の隅に一瞬だけ視線を送らせ、当然です、と返してセルゲイは朝靄へと消えた。ゆっくりと閉まる扉が音を立てる。
その音に、ジャックが薄い睡眠から覚醒したようだった。目を擦りながら怪訝な表情で扉と佇むミネルバを交互に見る。
「――貴方にもね」
ミネルバは、セルゲイが最後に何も無い中空を一瞥して唇を動かしたような気がした。ただの気のせいかもしれない。
さようなら、レンドラ。
そう口唇は動いたように思えたのだ。
+
エルジーニはレンドラの経歴を記した書類に目を通しながら、欠伸を噛み殺して古臭い椅子の上に腰を下ろした。長年煙草と埃を吸い込んだ木目は煤けていて、腹の出たエルジーニの体重に悲鳴を上げる。新しい備品は最近全て少年課や国事課に持っていかれるので、ここ暴力系第一部――つまり殺人課には殆ど回ってこない。かと言って彼らは憤激するほど怒っている訳でもない。そんな接着剤の匂いも新しい綺麗な椅子など、目の前の書類一枚の前には塵同然だった。
レンドラは周囲には自分がアイフォン人であると偽り、高等学校でアッシムカ語教諭として働いていた。一八七五年、今から七年前にオメカと結婚している。国事課の調べでは、彼がカリアニート派として旧キセー帝国で活動していた事が明らかであり、自分がアイフォン人であるという周囲へのアピールを強固なものにする為にアイフォン人女性と結婚したのではないかと推測される。
しかし、人にものを教える立場の人間が姪を売るとは。
エルジーニはその点に関しては呆れ果てている。思想がどうであろうと、どんなに哀れな被害者であろうと、同じ年頃の娘を持つ父親としてそれだけは理解が出来ない。
「行きつけの居酒屋で一杯ひっかけて、その後公園でズドン、だなあ」
唐突に中年の声が降ってきたかと思うと、白衣が正面の机に凭れかかる。一晩中死体となったレンドラと付き合ってきた医者は、疲れたように欠伸をした。
エルジーニは椅子に深く座りなおすと、どうだ、と尋ねた。相手は白い手袋でつまんだ汚い紙片を彼の目の前に突き出すと、「腹から出た」と言う。
「紙が? 溶けるんじゃないのか」
「溶けないんだよ、意外と。勿論モノによるよ、薬を飲むときに包む奴なんかは唾液でも溶けるし、今出版関係で出回っているのは全て酸性紙だから、放って置いても酸化して劣化が進む。塩酸と同じ強さの胃酸に長時間じっくり漬け込んだらそりゃあいつかは無くなるさ。けど、彼は昨日の夜中かその近辺にこいつを飲み込んだようだ。頑張れば読めないことはない程度にインクも残ってる。ちなみに胃液というやつは、食後約一時間半後に――」
「見せろ。アー……なんだこれ、アイフォン語じゃないな。アッシムカ語か。ヘイゼル、こっちに来てくれ」
放っておけば延々と薀蓄を語りだす友人を無視し、部長は雑然とした部屋の対極で何かを必死に書き写している妙齢の女性に声をかける。ヘイゼルと呼ばれた彼女はすぐにエルジーニの元へ飛んで来て、医者の持つ小さな紙切れに記された歪で不自然な文字を凝視した。
「私は宝物を見つけた。零時に、公園で」
「それは零時に公園で宝物を見つけたって意味か? それとも零時に公園に来いという意味か?」
「多分、後者でしょう」
アッシムカ語の堪能な部下に感謝すると、もう一度医者の痩せた顔を正面に見る。
「指紋は」
「取れる訳ないでしょう」
エルジーニは眉を顰めた。
初めて僅かに姿を覗かせた、犯人の姿。アッシムカ語を自在に操り、利き手ではないとは言え筆跡を残している。そして犯人がレンドラを呼び出した上に殺害したという事が分かった。紙片が胃の中で見つかったのは、レンドラが証拠品を消そうとしたのだろう。つまり、彼にとっても犯人と会うこと、若しくは宝とやらの話題を出すことは憚られる事なのだ。これ以上の痕跡は嘗て無い。
しかし彼は不満だった。
今まで犯人が残した足跡と言えば、被害者の喉に開いた弾痕だけだったのだ。
「このメモ、誰かに見つけて貰う為にわざと残したみたいだ」
医者は、それは考えすぎだと呆れたように笑う。
そうだろうか。自分は神経質になりすぎているのだろうか。
その時、
「部長、判りましたよ!」
一晩中電話をしていたらしいナイトが部屋に入るなり大声を上げた。
「こっちも判った。レンドラ達は恐らく――」
「何かを餌に犯人に呼び出されたところを殺された、でしょう?」
「……なんで分かった?」
「とんでもない餌ですよ。もし本当にそれがアイフォンゼーベルに存在するとしたら、混乱するのはこの国の歴史家や坊さんだけじゃないかもしれない」
会話を見守っていた医者が興味深そうに身を乗り出す。これ以上は彼の管轄ではないので気楽なものだ、とエルジーニはその体を肘で押し戻しながら渋面を作った。
「何なんだ、その餌とやらは?」
ナイトも彼に負けないくらいの渋い顔で首を振る。
「ハムラ氏の下へ行って来ます。もし彼がこの国に来た理由が同じだとしたら……多分、次は彼です」
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