血よりも強く 第4章「竜葬流星群」
42* 紅色夜叉
「厭だ、セルゲー! 開けてよ! 行かないで!」
強く握り締めた拳で閉ざされたドアを何度も叩く。しかし、男は既にその場から姿を消していた。
相手の気配が無くなっても、雛菊は喚き散らしながら何度も何度も手が痛くなるまで連打した。顔が歪んでいるだろうことが自分でも分かる。今にも大声で泣き出してしまいそうなほど、暴れる心臓が全てを支配していた。
嫌な予感、などという簡素な言葉では許されない。かつて自分を撃ちぬいた悪意がやって来た事を、雛菊は確信として感じていた。父が殺された時――そして、自分が襲われた時。あの時と同様の、悪夢のような悪意が。
柳眉を下げ、少女はドアノブに目をやる。
鍵がかかっている訳ではない、セルゲイはただ閉めただけだ。しかしそれは雛菊にとっては山のような岩石に洞を塞がれたのと同様だった。恐る恐るノブに手を触れ、その瞬間に閃く赤い色に咄嗟に身を縮める。
開ける事は出来ない、どう足掻いても。この先で父が死んでいるからだ。血の海に横たわる父の姿を見ることなど、もう二度としたくない。だから開けない。開けられない。
そしてまた喪うのだ。
閉じられた扉の向こうで、大事な人が血と共に命を吐き出し、自分は呆然と見下ろす。
彼の人を奪った世界と運命を呪いながら――。
「――巫山戯るなッ!!」
頭が熱くなる。
もう二度とあんな想いは認めない。自分にも、自分の周囲にも。傷つきたくない、それならば戦わなくてはならない。
恐怖も疵も、赤く塗り潰せ。
自分の血を以ってして、二度と開いてしまわないように。
部屋の端まで下がると、扉を睨む。大きく息を吸い込み、一瞬息を止めた次の瞬間、雛菊は床を蹴った。
右手の中の冷たい重みを指先でなぞりながら、セルゲイは雛菊の部屋を後にした。閉めた扉の向こうから自分を呼ぶ声が聞こえる。
階段へ向かいながら、古い短剣を一瞥する。長年机の抽斗に仕舞いこんでいたものが、まさかこんな形で役に立とうとしているとは思わなかった。恐らく相手が武器を持っている以上、こちらも武装して迎え撃たなければならないが、二階には何もない。この短剣を除いては。
ステアケースの上に立ち、階下を見下ろす。
黒服の男が、深い紫色の長細い布袋を片手にホールに佇んでいた。恐らく、あれが相手の獲物だ。扉は鍵を綺麗に両断され、中途半端に開いている。男はセルゲイに視軸を置くと、そのまま静止した。
「砂月の暗殺者ですね」
半円を描いてホールに足を伸ばす階段の手摺に触れ、セルゲイは静かに問うた。黎花の砂月王朝の暗殺者、つまり殺傷事件の犯人の方は銃を持っていない。まさか相手が複数人いて、しかも白昼堂々と乗り込んでくるとは意外だったが、それでもセルゲイのしなければならないことは明白だ。
警察が来るまで相手を足止めし、そして捕らえること。
よしんば銃を持っていたとしても、それは変わらない。二、三段階段を下りる。相手は黒眼鏡の奥からセルゲイを凝視している。
そして彼が沈黙の果てに呟いた言葉は、余りに意外なものだった。
「……なんだ? これはどういうことだ? 何故お前がここにいる」
セルゲイは眉宇には表さず、視線に不可解を示した。男は混乱すらしていない口調と無表情で、当惑の言葉を吐く。
「まさか彼が仕組んだ? いや、彼は知らない。誰も私の記憶を知らないはずだ……と、いうことは」
運命か偶然か、と呟いた男の声音は、周章とは無縁だった。
「貴方とは会った事もありませんし、出来れば会いたくもなかった。人違いならばお引取り願いたいのですがね。貴方の名は?」
もう一歩、下がる。別に誰何などしたくもない。相手の正体は最初から判っている。ただ、時間が欲しかった。窓からこの男を発見した直後にかけた、ごく短い警察への電話に対する彼らの反応を待つ間の。
男は小首を傾げ、階段の中途から見下ろすセルゲイを変わらず注視する。
「知っているはずだ。私の名はクラウン――いや」
「――アニカ、と言った方が解りやすいか?」
セルゲイの瞳が驚愕に見開かれた。
「どういう……ことですか」
クラウンは小さく息を吐くと、自分の爪先に視点を置いた。床ではなく、自らの内面を凝視する瞳で。
「……夢だ。あれは何時も水泡のように不確かに現れ、手を伸ばそうとすれば歪に揺れて逃げ去る。もう、消えた。忘れてしまった」
「巫山戯るのは止めなさい。何故貴方が私の妹の、アニカの名前を知っているのか、答えなさい」
短剣を強く握りしめる。柄の中の刃の熱さがそのまま自分の血の熱さを表しているような錯覚を覚えた。クラウンは黒髪の長身痩躯の男だ。記憶の中のアニカの芳香とは似ても似つかない。
見知らぬ暗殺者の口から家族の名が出た事に、セルゲイは動揺していた。
「司祭、お前は十日前に見た夢を覚えているのか? ならば私も努力しよう」
次の刹那、男が跳躍した。瞬時にステアケースの手摺に足をかけ、棒状の布袋をセルゲイの側頭部に打ち付ける。短剣の鞘でそれを防ぎ、セルゲイは階下に飛び降りた。じりじりと振動で痺れる左手で短剣を逆手で握り直し、鞘を放る。美しい鏡のような刃が視界の隅で煌いた。
クラウンは階段の半ばからその様子を見、紫色の布を解いた。その下に隠されていたのは、漆黒の長い棒のようなものだった。
先程とは立ち位置が逆になっている。余り良い状況ではない。特に――。
「
海神、理に唾棄された刃。王の戴と共に大海を屠れ」
音も無く鞘が滑る。漆喰の外殻から生まれたやや反り気味の長く細い刃は、見た事も無い程に深く澄んだ水面に似ていた。
――特に、相手の武器の攻撃範囲が広い場合は。
「刀か。黎花国が誇る世界最強の剣とこんな形で邂逅するとはね。尤も、使用者の腕が悪ければ一振りでも折れると聞きますが、さて」
皮肉混じりに呟く言葉も、杞憂に終わる。クラウンは一刹那の速さで階段を一段下り、刀は鞘を滑る。加速した刃は抜刀からそのまま一直線にセルゲイの頸を横薙ぎに払おうとする。
海神と呼ばれた刃は空気を斬った。喩え言葉ではなく、真実中空を切り裂いたのだ。空気中にぱっくりと口を開いた不可視の裂傷は、甲高い妙な音と共に瞬時に修復される。避けきれず、その中途に巻き込まれた。真空の剣はセルゲイの頬から耳を触れるように斬り、すぐに姿を消す。
鋭く熱い痛みを左頬に感じながら、それが掠り傷であることを認め、後ろに退いた上体を起こす。
「馬鹿な。滅茶苦茶だ」
小さく口の端を上げ、セルゲイは相手と距離を取った。血とは別に、汗が一筋頬を落ちる。
床が血を弾くや否や、再び刃が煌き、頭蓋を捕らえて疾走する。セルゲイは一瞬それを短剣で受け流そうかとも思ったが、すぐに避ける為に全身の筋肉を躍動させた。
駄目だ。あれは人が触れてはならないもの。
天災のような剣戟、その向こうにあるものは死。
物言わぬ男の振るう静かな一撃には、銃弾よりも確実な死のレッテルが潜んでいる。
一度、二度、三度。四度目には避けきれず右の二の腕が裂け、思わずセルゲイは呻き声を上げた。
「良く避ける。すばしっこい司祭だな」
「どうしてくれるんですか。高いんですよ、この司祭服」
袖を破って流れ出す血が手の甲を伝う。一歩後退りをした時、不意にシューズボックスが背中に当たり、彼は小さく舌打ちをした。左手には鍵の壊れた玄関、右手にはリビングへの廊下。相手の刀の長さを考えると、戦いを続けるのならば右へ、人を集めて救援を求めるならば左へ。しかし、左へ行けば確実に死ぬ。雛菊が死ぬ。
クラウンは刀を引き、刃風巻を止めて言った。
「司祭、この状況ではお前は真実不利だ。殺す気でかかれば万一にでも私に勝てるかもしれないが、そうすれば私の背後にいる人間を炙り出す事が出来ない。そうなると矢張りお前は私に勝てない。そして私もお前を別に殺したい訳ではない。だから取引をしないか」
「どんな?」
「その剣を寄越せ。そうすれば命は助かる」
静かな午前の屋敷の中、響いた男の声に、セルゲイは喉を鳴らした。くぐもった音はやがて含み笑いになり、傷付いた左頬を同じく血で濡れた右手で拭いた。
「狂ったか」
「狂っているのはお前達だろう、暗殺者。私の指紋がべったりと付いたこの短剣で雛菊を殺して私も殺し、そして彼女の死は自害か私との心中か、動機の選択肢を大いに広げるつもりだ。お前達の影すら見せずにね。知らないなら教えてあげますが、この国ではお前達の様な人間を下種と言うんですよ。もしかして、雛菊を殺そうとしたのはもう少し前だったのではないですか? 娼婦になった彼女を殺すつもりが、私がすぐに引き取ってしまったのでどうにも手詰まりになった――まったく、お前達はお粗末な程に滑稽ですね」
可笑しそうに笑うセルゲイを、クラウンは初めて強い意思の篭った目で射抜いた。僅かに眉根を寄せ、重心を前へ移動させる。
「愚弄するか、私の主を!」
相手の激情を誘ったセルゲイは、次にやってくる一撃に備えて同じく重心を移動させた。右へ、狭い廊下内では線の動きが点となる。流動的でない点ならば一度避けさえすれば隙が大きくなり、勝機も生まれる。なんとしてでも捕らえ、砂月王朝の黒幕を聞き出さなければならない。――そして、何故この暗殺者の口からアニカの名が出たのかも。
だが、その時だった。クラウンが刃を閃かせ、セルゲイが大きく右へ跳ぼうとした瞬間、二階で大きな破壊音が聞こえた。まるで開けられないドアを蹴破り、廊下に吹き飛ばしたような、そんな音。その直後、叫び声が聞こえた。
「セルゲー! 逃げて!」
突如降りかかった少女の声に、クラウンは動きを止め、一瞬だけ二階を見た。その隙を見逃すはずもなく、セルゲイが拳を打つ。鼻中を狙った一撃はかわされ、黒眼鏡の縁を割った。
「隠れてなさいと言ったでしょう!」
だって、と雛菊は階上から泣きそうな声で駄々をこね、セルゲイの顔が血で濡れていることに気付くと、益々顔を歪めた。しかし次にやって来た黒服の暗殺者に目を遣ると、驚愕の表情で口をぽかんと開ける。
クラウンは、床に落ちた黒眼鏡に見向きもせず、刀を構えてセルゲイを凝視している。
「な……その目は」
男はセルゲイの狼狽にも顔色を変えず、無表情で顕わになった両眼で相手を射抜いている。
雛菊の息を飲む声が聞こえた。
クラウンの左目は、鮮血のような真紅。
そして右目は、
「………う、そ」
――雛菊と同じ、神秘の黄金色をしていた。
今でも夢にみる。目を閉じればすぐに思い出せる。
懐かしい、とうに亡くしてしまった大切な人の貌が、そこにあった。
「パパ!!」
無我夢中で雛菊は叫んだ。縋るように、乞うように、手を差し出して階下の男の名前を呼ぶ。
何故父が、
風散が刀を携えセルゲイと戦い、雛菊を殺しに来たのか、理解出来なかった。雛菊はここがアイフォンゼーベルなのか黎花なのか、自分が十五歳なのか十歳なのか、現なのか夢なのかすら解らなくなってしまった。
「パパ、パパ! ねえ止めて、パパ、セルゲーを殺さないで!」
声が漏れる。自分が何を言っているか解らぬまま、悲鳴のような声が漏れる。
クラウンは雛菊に一瞥もくれず、セルゲイと剣戟を交わし始めた。リビングへの廊下へ入り込んだ二人は、二階から身を乗り出している雛菊の視界から消えた。真下から、刃を弾く音や、鍔競り合う細く鈍い音や、鋭く息を吐く音が間断無く聞こえてくる。それが死の際に立つ二人の殺仕合だと知り、雛菊は階段を駆け下りた。
その最中、短い呻き声が発せられたのを最後に、全ての音が止まった。
雛菊はそれが意味する所を察し、階段を下りる足を止めた。足音が聞こえる。一人の足音が近付いてくる。
「セルゲー……パパ……」
熱病に浮かされたような言葉を発した少女の前に現れたのは、左眼が紅い父だった。
刀の切先には血が付いている。セルゲイの血が。
一度だけ大きくしゃくりあげると、雛菊は眼前の父の金目を見つめながら言葉を紡ぐ。
「ねえ、パパ……。一緒に小物入れを作るって約束したのに、嘘ついたでしょ。す、凄く、悲しかったんだよ。でも、わ、私もずっと、パパのこと忘れてたから、おあいこかな」
クラウンは刀を掲げた。金と赤の双眸には何の感情の揺らぎも見えない。
雛菊は泣きながら笑顔を作ってみせた。無理矢理顔を歪め、痛むこめかみを叱咤し、出来るだけ優しい笑みを父に向けようと努力する。
「だから、怒ってるの? 私が、わ、忘れた、から? ママを、守れなかったから?」
泉を湛えた瞳に、刀が映る。これは、風散が大切にしていた愛用の刀だ。絶対に折れないといういわく付きの秘宝で、ずっと蔵に入っていたらしいが、使わなくては意味が無いと若い頃に引っ張り出して、祖母に大層叱られたと笑いながら話してくれた。
あの笑顔はもう見えない。
父は何も湧き上がるものを映すことのない、静謐過ぎる湖のような双眸で、他人の雛菊を見つめている。
彼の右手に垂直に構えられた刃が喉元を突く直前になっても、雛菊は目を閉じなかった。
「ごめんなさい、パパ」
ずっと逢いたかった人の姿を、その瞳に焼き付けるように。
突き出された刃は、雛菊の喉の手前で止まった。
クラウンは初めて苦しげな表情を見せ、体を震わせる。ああ、と小さく苦悶の息を吐く。
「そうか、エンデ。お前が仕組んだのは
こちらの方か……!」
苦しそうにそう漏らしたその瞬間、クラウンの体が揺れた。もう一度雛菊を刺そうと右腕を掲げ、そのまま刀を取り落とす。呆然と見守る少女の視軸の中、暗殺者は階段の上に伏臥した。
それで戦いは終わった。
「……パパ」
雛菊はそっと階段に座り、力無く横たわるクラウンの髪を撫でた。かつて自分がそうして貰ったように伏せられた瞼に触れ、頭を抱きしめ、背中に突き立った短剣の向こうに佇む満身創痍の青年を見る。
そしてぽろぽろと涙を零しながら、父親の体に縋りつき、悲痛な声を上げた。
「人殺しッ!!」
真っ赤な返り血を浴びて泣きながら叫んだその少女の言葉を、恐らくセルゲイは生涯忘れない。
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