血よりも強く 第5章「インドリクの鳳声」
44* 沈黙する者
体中に電撃の様な痛みが覚醒を促し、眠ってしまうことも出来ぬまま、セルゲイは薬品の匂いのする寝台に横たわって天井を凝視していた。アイフォンの病院に来たのはこれが初めてだった。今まで大きい怪我も病気もしたことのなかった上に、例え怪我をしても自分で治してしまおうとする
性質だったので、彼にとっては病室というのは居心地の悪い場所でしかない。
セルゲイの記憶の中の病院というのは、戦場帰りの傷痍の男達が痛みと寒さに堪えきれない苦悶の声を漏らしながら詰め込まれる所だった。まだ十代の幼かった当時、彼はキセー帝国首都キセラの端にあった軍人病院に潜り込んで、怪我人や病人達を見て回った事がある。暖炉も無く、練炭の鉢が部屋に一つぽつんと置いてあるだけでは、キセーの冬を越せるはずもない。ましてやそれが病室であるとなると、なおさらだ。
彼が日が差していても薄暗い廊下の椅子に座って病気の匂いを嗅いでいる内に、白い布をかけられた担架が一つ眼前を通り過ぎていった。それを目で追った後、再び暗い病室の中に視線を置き、布の下の人間は病室の人間と違って呻く事をしていなかったことに気付く。
あれが死か――と覚えた記憶がある。
怪我人は生きている内に枯れ山を渦巻く空風のような呻き声を上げる。それが生きている証であり、だからこそ叫んでも痛みなど和らぐはずがないのに声を出すのだろう。まるで、生まれたばかりの赤子と同じように。
ならば、今の私は死んでいるのか?
沈黙を守ったまま天井を見つめているセルゲイは、声の一つも出そうとしない咽頭に、困惑の笑みを浮かべた。
そして、溜息をつく。別に思い出に逃避した訳ではない。自分はいつでも
こうだった。
あの死闘のあと、直前にセルゲイがかけていた電話に飛んで来た警官が、ホールの血の海を見て何度も口の中で祈りの言葉を繰り返した。そして早く救命医を呼んで、という雛菊の絶叫に漸く我に返り、車を呼んだ。意識を失った大人一人を乗せるのが精々の狭い車内を思い、セルゲイは階段に座り込んで左胸から滴る血を抑えながら、クラウンと雛菊を先に行かせた。
少女は、一度も長老を振り返らなかった。
次の車が来る直前に、漸くジャックが血相を変えて家に飛び込み狼狽した。どこに行っていたのかはセルゲイには知る由も無いが、強硬な姿勢で張りをしていたわずかな隙を突かれたものだから、焦り方も激しかったのだろう。
「畜生、何があったんだ!」
セルゲイが若いアイフォン人だったなら、「知るか、畜生」と返していたに違いない。口に出す前にそれは痛覚で濾過され嘔吐感と変化したので、結局セルゲイは目を閉じて傷口を押さえる事に専念した。
しかしそれでもどうにか「ミネルバは?」と声を出すと、ジャックは落ち着きを取り戻そうとする表情のままで首を横に振る。「知らない、」と。
「問い合わせてください。院に」
大聖院の言い付けで小アイフォンゼーベルにやって来た守護者である彼女の足取りは、院が知っているはずだった。ジャックはその言葉に頷くと、その場でそれ以上の質問をセルゲイにすることを控えた。病院へ向かう為の車がやって来たからだ。
そして今に至る。その時から今までの四半刻の間には何の進展もない。
医師と看護衛生師以外は誰も彼に会いに来なかったし、誰とも目を合わせていない。
セルゲイの乱れた髪からは香油の効果が薄れ、真っ直ぐに天井を射抜く視線を覆おうとする。動かせない左手の代わりに右手を静かに額に掛け、白い髪を横に梳いた。右の頬に張られた白い絆創膏の奥からは、まだじくじくと熱い痛痒が響く。医療用の接着布で傷口を確りと閉じた時、余り深くは無いが薄い傷跡が残るかもしれない、と痩せた医師が告げた。セルゲイは自分の顔はどうでも良かった。体ですら、本当はどうでもいい。腕の一本程度なら捨てても大儀無い。ただ、刀で刺された左胸の痛みで動けない事が辛かった。
その時、薄いドアがノックと共に開かれた。
「痛み止めを打って貰えますか」
寝台の脇にやって来た中年の看護衛生師の男に言うと、相手は丸い顔をセルゲイに近づける。
「麻薬ですから、癖になると困ります。今ある薬は次の議会で使用の廃止が決定しそうです。それに、痛みを感じなくなると動くでしょう。動くと傷が塞がらんです」
独特の喋り口で丁寧に告げると、包帯に隠されたセルゲイの傷を目で指した。布が押し当てられ、肩と胴に幾重にも巻かれたそれは、眩しいほど清潔で白い。その奥の刺された傷は丁寧に縫われ、血を凝固させる薬を塗り込まれ、今のところ新たな出血は無い。
「肩の下だから、内臓は損傷していないでしょう。刃が鋭利だったから傷口も綺麗だ。ただ、血が出ただけで」
「だから、それが問題だと言ってるんです」
「頼みますよ、先生。痛みのせいで寝不足で死ぬかも」
先生、と呼ばれたのが彼は少し嬉しかったようだった。セルゲイの懇願についに折れた看護衛生師は、人の良さそうな柔和な顔を苦笑に歪め、脇に置いてあった木製の手押し車の中から薄い銀の箱を取り出す。
窓からの曇り空を鈍く反射させる細長い箱の中からは、小さな硝子の注射器と同じく小振りの硝子の瓶が現れた。
「司祭さんは、冷静な割に我侭です。そして司祭さんの癖に身体つきが良いです。痩せのひょろだったら刃がもっと深くに入ってポックリでした」
慣れた調子で硝子の中の液体を注射器に移し終えると、セルゲイの腕に打つ。「大人しく寝てね。今日はもう打ち止めです」
念を押し、それ以上言う事が無くなったのか、彼は踵を返して病室を出て行った。
セルゲイは、殺されかけた人間に対して随分と明け透けにものを言う衛生士だと妙な感心を覚えたが、それは彼の長年培ってきた観察眼に拠るものだと考えた。セルゲイが傷に対して恐怖するでも混乱するでも無く、ただじっと天井を凝視していただけなのを見抜いたのだから。
半分開けられた窓からすり抜ける春風は雨の匂いがした。セルゲイは目を閉じ、麻酔が体中を巡るのを待つ。雛菊とクラウンもこの病院のどこかにいるはずだった。彼女に会えるか会えないかは別として、取り敢えず、動けるまでに痛みが消えるのはもう少し先のようだった。
呻き声の一つでも上げてやろうかとも思ったが、何時まで経っても命の危険を感じなかったので、矢張り黙っていることにする。
ロストスペルがこの間会った時と同じような興味深げな顔でセルゲイの病室に顔を出したのは、麻酔を打ってから少し経ってからだった。一般暴力系のナイトやジャックが来るものだと思っていたので、聊か鼻白んだが、良く考えれば国際刑事課が担当して当然の事件だろう。病死していたはずの黎花焔蓮華の前当主が、現当主である娘を殺しに来たのだから。
そして、その彼を刺したのは自分なのだ。
「お元気そうで。屋敷で現場検証を行っていますけど、何か見られて困るものがあれば今からでも隠しに行きますが?」
セルゲイは少し考えてから頷いた。
「学生時代に貰ったラブレターを。処分してくれと言われていたのを忘れてました」
「その様子だと、何も出てこなさそうですね。残念だ」
世間話のような会話で、ロストスペルは白い歯を見せた。攫み所の無い穏やかな水面を取り繕うのは、自分と良く似ていると思った。ただ、この刑事はその深部に恐ろしく強い激流を持っているに違いない。ただ一点に突き進む、夜明けのような奔流を。
青緑色の瞳にセルゲイを映しながら、ロストスペルは寝台の隣に据えられた木椅子に腰掛けた。横になっているセルゲイとの視線の角度が柔らかくなる。
「貴方には黙秘権があります。証言は裁判に使われる事があるので、自分に不利になるような事は言わなくても結構。逆説的に、偽証は裁判で使われた際に罪に問われるのでお奨めしません。警察の強迫、拷問による自白は証拠として採用されません。ええと、後は何だったかな……思い出したらおいおい言います」
セルゲイは興味深そうに相手の顔を見つめた。僅かに口の端を上げ、「なるほど」と呟く。
「容疑者という訳ですか、私は」
「正当防衛が採られる可能性があるとは思いますが、僕は検事じゃないのでその辺は知りません。貴方は一人の人間を背後から刺した。認めますか?」
ロストスペルは、背後から、という単語を妙に強調する。正当防衛になるはずがない、良くて過剰防衛だ。そう言下に宣言するやり方は、それでもセルゲイに動揺を与えなかった。
「覚えてませんね。無我夢中でしたから」
刑事は少し間を置いて、続ける。
「そうですか。まあ、雛菊さんは黙っていましたけど、子供が見たって誰と誰がどうやりあったのかは分かる」
雛菊が、とセルゲイは意外に思った。
人殺しと叫んだあの金色の瞳、憎しみに飲まれたくないと呟いていた彼女の、自分を射抜く目の中には、強い憤りと憎悪が輝いていた。
暗殺者とはいえ、自分は彼女の父を刺したのだから。
「あの男性は……
風散さんは?」
「聞いていないんですか? 死にました」
セルゲイは微かに眉根を寄せた。
「――と、誰もが思ったんですけれどね。貴方の短剣は心肺に達していた。すわ殺人事件かと仲間は色めきたったものですが、生きています。普通でないくらい健康に」
「冗談はやめてください」
「失礼。生きています、雛菊さんの父君は」
そうですか、と呟くと、セルゲイは安堵したように息をつく。
「では詳しい事は彼から聞いてください。私には何が何だか解らない。砂月にとって敵だった焔蓮華の当主が砂月に回っていたなんて、普通では考えられない。例えば――記憶喪失か何らかの方法で操られてるかしない限りは」
ロストスペルはじっとセルゲイを見つめていたが、やがて椅子から立ち上がり、違うなあ、と不満げに首を傾げる。腕を組み、病室の窓の外を見つめる様子は、本当に不思議そうだった。
「どうも貴方とは会話が噛み合わない。僕と似た人種だと思っていたんですけれど、どうやら違うみたいだ」
「何がですか?」
「警察に厄介になった事は無いでしょう。貴方は完璧だ。完璧だから、そんな詰まらない経験は無い。だから貴方は、警察への対応というマニュアルは持っていない」
「そんなものを持っている人間の方がごく少数では?」
「ですからね、大多数の人は素が出て慌てる。怯えて自分の行動に過敏になる。雛菊さんの父は、貴方によって
殺されなかった」
セルゲイはロストスペルの言わんとする所が解らなかった。確かに、聖人ならどのように行動するか、という指針を抱いてきた彼にとって、雛菊が現れてからの日々は戸惑いに値するものだった。けれど、人から見て明らかに異常だと思われる行動は取っていないはずだった。そこまで世間知らずではないつもりだ。
「ええ、」とセルゲイは慎重に返す。
「雛菊が彼に会えて良かったと言っていいのかは判りませんが、少なくとも彼女の家族への慕情はとても大きかった。暗殺されたはずの父との再会という点についてのみ、祝福することが出来るはずです」
相手は無表情にセルゲイを見下ろしていたが、やがて静かに口を開いた。
「あの人が生きていて、本当に良かった。人をこの手にかけなくて良かった。神よ、感謝します」
そして少し笑う。
「殺意の無い大多数の人の全部は最初にこう言います。貴方に殺意は無かったなら、貴方はどういったケースに分類されるんでしょう。矢張り貴方は、僕とは少し違う」
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