血よりも強く 第5章「インドリクの鳳声」
47* 選択する者
その足で雛菊が向かったのは、一つ下の階の病室だった。
雛菊が部屋を出ると、外で待機していた二人の警官は顔を見合わせ、一人が部屋の中を覗いた。この二人は風散に対する監視役なのだろう。何かを言われたが、雛菊は上の空で適当に返し、一人で廊下を進んだ。
途中、向こうからやって来た太った女性の医師か衛生看護士が、「警察の抱えてきた猫を知らない? 目を離した隙にどこかへ……」と連れ立って歩く部下らしき栗毛の女性に問いかけた。そして彼女達は雛菊にも、雛菊の抱えている深い紫色の長い包みにも気付かぬ風に、早い足取りで雛菊の来た道へとすり抜けて行った。
視線を横に流すと、硝子窓が連なっている。ここは病院の二階か三階だろう、大地を滑るように這う車や馬車や人の頭頂部が、右から左、左から右へと流れていくのが見えた。
二一一と銘打たれた扉の前に立つと、少しの躊躇の後に、二三度ノックをして押し開く。
セルゲイは、寝台の上でじっと天井を眺めていた。部屋に入って来た雛菊に目を遣ると、枕の上の頭の位置を少しずらした。左頬の白い絆創膏も、患者着の下から垣間見える白い包帯も、痛々しい。横たわる彼を見るのは、初めてではなかったろうか?
ぽつんと置かれた椅子に座り、僅かな温もりがそこに残っていることに気付いても、雛菊は言葉を選ぶ事に集中していた。やがて、小さな声で尋ねる。
「大丈夫?」
「何が?」
体のことに決まっているではないか。
雛菊は間を挟んで、相手の頬の白い絆創膏から目を逸らした。顔色は悪くない。命に別状は無さそうだった。
「……いろいろ、大変な事になっちゃったから」
「貴方は気にしなくて良い」
何て間抜けな問答だろう、と雛菊は可笑しくなって首を傾げた。先程のクラウンとの会話に比べれば大分にまともに聞こえるが――今は、諄々とそれについて説くつもりはなかった。
「今、お父さんに会ったの。あれは確かに私のお父さんだけど、でも違う。言っている事が滅茶苦茶でよく解らないけど、この世のものじゃないって自分でも言ってた。幽霊よりも確かで、物の怪よりも頼りなげで、そう……
遺産みたいに」
遺産、と鸚鵡返しに呟くと、セルゲイは雛菊の言葉の続きを待つように一度だけ大きく息を吸い込んだ。
「ずっと昔から、色んな人を渡り歩いて生きてきたみたいな事を言ってた。もしそれが本当なら、きっと年寄りの寄生虫みたいなものなのかも」
「……赤蟲の住人」
「え?」
低く、独り言のような相手の言葉に、雛菊は身を乗り出してその瞳を見つめた。
「西の小国、ゼペッソ共和国に古代から伝わる神話です。血のように赤い宝石が意志を持ち、持ち主を食い殺して井戸に埋め、本人になりすまして生活するという伝説。彼の左目は真っ赤だった。左耳の石玉の耳飾と同じような」
ゼペッソ――聞いたことがあるような気がする。雛菊は目を瞬いて、ゆっくりと言葉を返した。
「狐の化生みたいに、妖怪が私のお父さんに変化してるってこと? でも、あれは……お父さんだと思う。それに、それだとあの人自身が言った事と矛盾してくる。『風散の体』って何度も言っていたし」
「事実が伝説になる際には、脚色や歪曲があります。宝石そのものが変化しているとは限らない。赤い宝石のような何かが、持ち主の人格を変貌させる異変を齎す――端的に言ってしまえばそういう事でしょう。『赤蟲の住人』は歴史上の文献に何度か登場する遺産でしたが、まさか本当に存在するとは……」
右手で目頭を押さえた青年を眺めながら、雛菊は少しだけ嬉しくなった。セルゲイは、例え本人がレリック嫌いを公言していても、その道のエリートだったのだった。もしもクラウンが人でなく、科学でも解明のつかない遺産であるとするならば、医者よりも科学者よりも、司祭が何よりの治癒者になるかもしれない。
しかし、そんな雛菊の心境を見抜いたのか、セルゲイは「でも」と続けた。
「彼が赤蟲の住人であるかどうかは問うてみなければ判らないし、もしそうであったとしても私にはどうしようもありません。伝説が目の前に現れたんです。彼に対する対処法は、今この瞬間から研究が始まったと言っても過言じゃない」
「そう……。なら、守護者だったら? ミネルバさんでも解らないの?」
「彼女が適任であることは認めますが、それでも恐らくどうしようもないでしょう」
残念でないと言えば嘘になる。
だが、雛菊自身も、風散に対する問題が一朝一夕で片付くものでは無い上に、自分自身ではどうしようも出来ないことを身を以って理解していたので、悲しむ必要は無かった。
伝説が目の前に現れたのではない。失われた過去が目の前に蘇ったのだ。
たったそれだけの事が、少女の宿望を果たしてくれた。
そして常に選択を迫られる人生に変わりは無い。これからどう歩むか、どうやって前へと進んで行くべきか、考えなければならないのはそれだけなのだ。
――雛菊は、もう既に選んでいる。
頑なな心の中に、緋緋色金の中に、例え虫が居ようとも、彼女は自分が
どうすべきかを選んでいた。
「それは? よく警察に取り上げられませんでしたね」
初めて雛菊の持つ刀に気付いた風に、セルゲイが柔らかな声音で尋ねた。雛菊は笑った。
笑って、刀を取り巻く布を解いてゆく。
「これもうちに伝わる遺産。前に言ったよね? 絶対に斬れないっていう伝説の」
最初に私が部屋に入って来た時、すぐに刀に視軸を置いた癖に。
「大体のものは斬っちゃうみたい。お父さんは刀使いの中でも相当の腕を持っていたから、セルゲーが死ななくて本当に良かった。強いのね、あなたは」
鞘から滑る刀身は、幾星霜の時を耐えてきたにも関わらず、一点の曇りも無い。以前セルゲイは、普通の刃物に皮脂や血肉が付くとすぐに刃が欠けると言ったが、これでこの刀が普通ではない事が分かっただろう。
セルゲイは何も言わず、ただじっと雛菊と雛菊の持つ刀の輝きを見つめている。その瞳には、穏やかな光だけが宿っていた。雛菊を守る為に自らが対峙した凶器を、何も映さない目で眺めている。
「私は今までずっと、自分に嘘を吐いてきた。子供だから何も出来ない、母がいないとまともになんて生きていけない、私を愛してくれる人が居ない世界で生きる事は辛すぎる。だから、思い出の中に閉じ込められればどれだけ良いかって思ってた。でも、それは死者の論理。守るものの見出せない抜殻の思い」
もう一度、微笑する。
決別するための笑みを。
「殺さなくちゃいけないの。私の中にある、愚かで詰まらない、子供じみた、愛しい抜殻を。さようならを言わなくちゃ、動けないし考えられない。殺して、そして私は意志を産む。あなたには解る? きっと……解らないと思う」
抜身の宝刀を横に構えた雛菊を、セルゲイは怪訝な相貌で凝視する。次の刹那、彼女が何をしようとしているのかに気付き、僅かに上体を寝台から浮かせた。
しかし遅かった。
「あなたは少しだけ、可哀想だ」
雛菊は構えた白刃を思い切り横に引いた。そんな小さな力でも、刃が空気を蹂躙する音は、確かにセルゲイの鼓膜にも伝わった。
+
ソフィアは珍しく、傍から見ていても明らかなほどに苛々としていた。学校が終わった彼女は、今朝の雛菊の言葉が気にかかることもありセルゲイの家に遊びに行ったのだが、何故か警官が敷地内に入る事を拒み、にべもない態度で追い返されてしまったからだった。
私の友達が居たはずなんですけど、どこに行ったかご存知ですか?と淑やかな仔細顔で尋ねる彼女に、「知らないよ、帰って」と警官が左手をひらひらさせた時、細い眉毛が少しだけ上下したのを、隣に佇んでいたゲドは見過ごさなかった。きっと、門の鉄格子を引き千切ってその間抜けな顔にぶち込んでやろうかと思っていたことだろう。生憎ソフィアは社交辞令も建前も分際もそれなりに弁えている少女だったので、笑顔で辞儀をして踵を返したのだった。
「ああ、腹が立つ! 公務に携わる者があの態度、どういうこと! あたしを誰だと思ってるのよ!」
「ソフィア、独り言は静かに言ってくれないかい。君がその人格を俺の前では出さないっていう設定がだだ漏れしてるよ」
「あら御免あそばせ! しがない三十路のお嬢様に対する淡い夢を砕いてしまって遺憾極まりないわ、許して頂戴ね!」
憤懣やるかたないソフィアの後をとぼとぼと歩く――いや、引き摺り回されているゲドは、深い溜息を吐いて空を仰いだ。今日も、会社の中庭で長い昼休みを取る為にぼんやりと煙草を吸っていたところを、ソフィアに捕まったのだ。雛菊に会いに行くからついて来て、彼女は貴方に会ってお礼を言うべきよ、そうでしょう?と。
普段なら、仕事があるし――まあ、実際これは彼にとってはどうでも良いものだったが――と言ってご辞退申し上げるところだが、丁度その時に雛菊と司祭が警察に連れられて病院に行ったという一報が社に入ったのだった。それを半分信じなかったソフィアは、わざわざ主の居ない館に下僕と共に出向いて公僕におざなりな対応を取られ、結局気分を害しただけだった。
何かある毎に舎弟として駆り出されるゲドは、最初こそ年上の誇りや尊厳やらの所為で腹を立てようと思うこともあったものの、持って生まれた格の前に、最近は大人しく従うしかなくなっていた。格というより、持ち前の尊大さと言った方が正しいかもしれない。
「友達は多いはずだろ、ソフィア。なんで何時も俺を――ああ、もしかして、好きなのか? 参ったなあ、俺は二十五以下の女には興味が」
「寝言は寝て言うから寝言なのよ。前も言ったでしょう、フットワークが軽くて立場もある大人って貴方くらいしかいないんだって」
「聞きようによっては凄い皮肉なんだが」
「そう? 私の下着を盗み見た痴漢に言う皮肉なんて、物理的なものしか思い浮かばないけど」
あの平手の様にか、と呻いてゲドは頬を擦る。
ソフィアはジューダ通りの小道に入ると、周囲を見回して入る店に目星を付けた。
「警察は新聞社を舐めているわ。ペンは剣よりも強しよ」
彼女が正面に立ったのは、『高品質の生活と高品質の人生を提案するモダンリビングショップ』という、色褪せながらも上品なデザインを誇るポスターが出迎える、およそ貧乏人には縁の無い店だった。ゲドはさっさと中に入る少女を追いかけてドアを潜りながら、言葉を継いだ。
「少し語弊があるね。あの家の司祭と少女が警察と共に病院へ行ったのを見ていた近所の住人が、小銭欲しさにネタを俺達に売ったのさ。正に、金はペンより強しだね」
「ちょっと疑問なんだけど、それだと愛はどの辺に入るのかしら。個人的にはペンより強いと嬉しいのだけど」
「金より弱いのかい」
畢竟するに、とソフィアが呟いた。ゲドは一瞬そのアイフォン語が何を示すのかを理解出来ずに、ひっきょうするに、とそのまま小さく返した。時折この少女は、同年代の民草が口にすることもないような古めかしい文語を使う。例えば「
懶惰な人」や「
疑懼させる」など、どうして「怠け者」「圧迫を与える」と言わないのだろう、とゲドはいつも後で辞書を引きながら首を傾げるのだ。
「両手一杯に土産物を抱えた友人が来たら、病室にまで警官は来ないと思うの。兎に角あの二人に会って安否を確認すること、それが今の私の最大の目的。何か可愛いのを見繕って、早く行きましょう」
鮮やかな色の枕カバーや、意匠の凝った鳥籠や、丁寧な刺繍の手拭いなどに視線を滑らせる少女を見ながら、ゲドは細かい宝石の付いた耳飾りに目を遣った。
「死んでたらどうする?」
ソフィアはものも言わず振り返り、強い視線でゲドを睨みつける。空のように蒼い瞳は、怒りと不安に微かに揺らいでいた。
「情報が無いの。もう一度適当な事を言ってみなさい、怒るわよ」
「ああ……ごめん、職業病で色々な可能性を考えてしまうんだ。軽率だった」
雛菊は数日前に、あの青い髪の青年に襲われて怪我を負っている。再び彼が雛菊とセルゲイの元にやって来て、彼らに危害を加えたのではないか――。ソフィアは一言も言わず、ただ無礼な警官の態度に立腹していた。何かを言うと、少しでも憶測を始めると、不安で我を忘れるかもしれないと自分で解っているからかもしれない。そうそう長い付き合いがある訳でもないが、ゲドは、この少女が幼いながらも肝心な時にどうすればいいかを心得ている所に好感を持っていた。大人の仲間入りをしているつもりで、必死に背伸びをしている所にも。
「職業病になるくらい立派にお仕事してるのね、安心したわ」
口の悪い所も、まあ、それほど嫌いではない。
あと十年早く生まれていれば、と惜しく思う事も偶にあるが、そう思う自分が少し気持ち悪くなって自己嫌悪に陥る。しかし、誰がどう見ても、ソフィアは十年後には貴族の世界で一番美しい女性になるに違いなかった。
そして好いているからこそ、忠言のひとつでも挟みたくなる。小瓶の中に色とりどりの粉が入っている画材箱に指を這わせ、ゲドは何気なく呟いた。
「焔蓮華に肩入れするのだから、それなりの覚悟はあるんだろうね」
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