血よりも強く 第5章「インドリクの鳳声」
48* 傍観する者
「どういう意味」
棚の向こうから顔を覗かせ、訝しげに少女は返す。破天荒な割には聡明なこの娘が、この問い程度の仔細ごとに心を遣った事が無いはずがない。
だがゲドは、敢えて視線を鉄の鳥篭の中にいる鶯の人形に視線を置きながら、改めて一言一句噛み砕くように言った。店内に漂う異国の香木の芳香が、大人気ない彼を責めるように鼻腔を撫でる。
「そのままだよ。今の黎花を率いている砂月王朝は、水面下で焔蓮華と敵対している――というか、一方的に敵と見做している。この話は俺たち記者仲間では常識の範疇だ。砂月と焔蓮華のどちらに付くかで、黎花の政治家は思案に暮れている。十年前のキセー帝国と同じようにね。アイフォンゼーベルの有力者であるヨーク家の跡継ぎが焔蓮華と親しいとなると、色々と面倒な事も起こるだろう」
「そうね、もしも私が兄貴ならきっと答えが出ている癖に滅茶苦茶悩んだわ。でもあたしは兄貴じゃないの。甘いものと素敵な殿方が大好きな、少し巷間に疎い十四歳のお嬢様。難しい事はさっぱり分からない」
そう言ってソフィアは顎を上げて鼻を鳴らした。
「あたしが雛菊を切る時は、雛菊が政治的な思想の元にあたしを切る時よ。その時には大仰に泣いて一週間はものも食べずに痩せ細って公の場に出てやる。血の宿命に悲観する哀れな貴族の少女に、きっと皆が慰めてくれるわ。そう、色んな方がね。ゲドさん、あたし達は何をどうすれば良いかなんて、ちゃんと分かってるのよ」
「……ああ、よく分かったよ、ありがとう。君達が涙や笑顔を隠れ蓑にする恐るべき生き物だってことを思い出させてくれて」
「まあ。ゲドさんって、余り良いガールフレンドに恵まれなかったのね」
そう言いながら、ソフィアは犬の人形と、木の葉を模った緑色の宝石のネックレスを掴むと、迷うことなくカウンターへと持って行く。安くは無いだろうに自腹を切るあたり、侯爵の長女らしさが際立って見える。
大人として頼られなかった事に少し不甲斐無さを感じたゲドは、店を出てから、前を歩く少女に声をかけた。
「何をどうすべきか……それは起こった事に対する処置の話、つまり結果の後の話だろう? 本当に大事なのは、何をどうすべきかでなく、何をどうさせるべきかじゃないかな」
「回りくどいわね。結局どういう忠言がしたいの?」
「つまり、友達は選べってことだよ。友を見れば
為人が判るって言うじゃないか。特にあの司祭、余り良くない話を聞く。例えば、あの雛菊は元は娼婦で、彼が身請けしたとかね」
その言葉に、驚愕に口を開けて振り返るかと思ったが、ソフィアは「だから?」とだけ言って立ち止まった。大通りに出たのだ。手旗信号で馬車や四輪自動車の交通を指導している警官が道の真ん中に立っている。橙色の旗が歩道にいる人間に対して振られるまで、対岸に渡りたがる人間は待機しなければならない。
「記者って毀誉褒貶を一々額面通りに受け取って一喜一憂してるわけ? それとも私が驚くとでも思った?」
金色の旋毛に向かい、ゲドは尚も食い下がる。
「君は少し迂闊じゃないかな。その通り、俺は低俗と事件を愛するリバティ紙記者だよ。これはあくまでオフ・ザ・レコードです、と言われて頷く人間に見える? 君のような高貴な人間と俺が偶さか知り合ったことでさえ、有るまじき事だ。俺はきっと、君の友達の体を労わりながら、後で面白おかしく記事にするだろうよ」
するとソフィアは土産の入った紙袋を抱えたままゲドを振り仰ぎ、薄い笑みを浮かべる。
「分かったわ、さっきから貴方は私を見縊ってるのね。いい? 貴方の会社に入った情報は確かだった。焔蓮華の跡継ぎと錫杖授与の司祭がまた警察に連れて行かれた、でも現場にはほんの少しの通りがかりの野次馬と警官しか居ない。新聞記者は誰も居なかった。これって変よね? 私はアレクサンドル様が本来ならどれだけ立場ある方か知ってるし、大聖院がどういう所かも知ってるわ。ヨーク家は元々聖職者寄りの貴族だったから。つまり、院や黎花国からのお願いがあって、貴方は彼らについて記事を書けない。――私を揶揄うのも良いけれど、もう少し私が勉強家だって事を勉強しておくべきね」
図星だったので、ゲドは遂に口を噤んだ。
ほんの少し鎌をかけて揶揄ってやろうと思って、これだ。ソフィアを本気で揶揄しようと思えば、こちらも本気を出さなくてはならないに違いない。ゲドは観念すると、溜息と共に肩を竦めた。
「分かりましたよ、お嬢様。これで何連敗だろうなあ。でも本当に仕事があるから、病院までは送ってくが、俺はすぐ帰るよ。正直に言うけど、焔蓮華に恩を売ろうなんて考えたくもない。ただでさえあの色男の暴漢に顔を見られているっていうのに、砂月に目を付けられるのはお断りだ。俺には君ほどの勇気は無いんだ」
「良いわよ、それで」
貴方みたいな凡夫に黎花国砂月王朝が目を光らせてる訳は無いでしょう、と青い目が如実に語っていた。その意見には全く同意だが、ゲドは気付かない振りで、警官が旗を振ったのと同時に口笛と共に往来を歩いた。時々思い出したように鼻先に噴霧器から生まれたような雨が落ちたが、本降りにはならない。
結局、二人は病院の中には入れなかった。
面会謝絶だと受付の中年の女が冷たく告げたからだった。
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幾筋かの亜麻色の絹糸が、窓から差し込む雨雲の光に煌きながら雪のように床へ落ちてゆくのを、セルゲイは身を起こして凝視していた。驚愕したような相貌は、或いは本当に驚いていたのかもしれない。
雛菊は途端に重みを増した左手と、反対に浮遊するような軽さを得た頭に、思ったよりも達成感を感じなかった事に少しだけ鼻白んだ。
「何て事を」
まるで子供のように短くなった雛菊の髪を見て、セルゲイは小さく呟いた。
刀を首の裏に回し自分で切った為に、肩の上で揃えられた髪の縁は歪な直線になっている。数瞬前までは腰まで流れていた長い房を、小さな木の机の上に無造作に置くと、雛菊は刀を仕舞って小さく笑った。右手で短いミルクティー色の髪を乱暴に梳き、頷く。
「はい、おしまい」
「……お終い? 確かに恐ろしく勿体無い事ですが、これが――?」
「だから、あなたには解らないって言ったでしょ」
あの亜麻色の先端には幸せだった頃の家族と自分がいた。
その妄執は足枷でしかない。だから殺した。そして例え殺しても、絶対に彼らを失くさない手懸りが自分の中にある事に、気付いたからだった。――それが、一つ目の理由。
セルゲイは眉根を寄せている。雛菊の儀式的な行為が何を意味するのかを熟考するように、少女の金色の瞳と短くなった髪とを眺めていた。アイフォンでも黎花でも、自ら喜んで短髪にする女性は余り居ない。女性らしい魅力の半分は髪の毛に宿ると信じられていたし、長い髪は成熟した証だったからだ。だからきっとセルゲイは、雛菊が「女を捨てた」という意図で髪を切ったのかどうかを考えているに違いない。
「もっと十二歳に見えるかな?」
「まだ根に持ってるんですか。十五歳だと知っていれば十五歳に見えますよ」
「あんまりフォローになってない」
黎花では、過去に見切りをつける時に髪を切ることがある。
そしてまた、強い決意を示す時にも。
セルゲイは恐らく、特にこの二つ目の理由を知らないだろう。
だから雛菊が少しトーンを落として続けた時、やっと少女が確かに「抜殻を殺した」事を悟ったような表情を作った。相変わらず、どういう心情の経緯があったのかは理解出来ていないのだろうけれども。
「私、あなたの事、全然知らない。知ってるのは、アニカさんっていう妹を待ってる事くらい。他には? きょうだいは一人だけ?」
「いえ、もう一人、いますが」
相手の薄い青紫色の瞳を覗き込む。
「ずるいじゃない。セルゲーはこの数日間ぽっちで、私の事を大体解ったでしょう? 私が長年忘れたと思い込んでいたことさえ、あなたは私と同時に知ってしまった。私には隠し事なんか無いし、秘密にしておきたい事なんて無いもん。あなたは秘密ばかり。嘘ばかり」
「嘘?」
セルゲイは驚いたように目を見開いた。
「私がどんな嘘を? 言わなかった事はありますが、嘘をついた事はありませんよ」
「それは……」
雛菊は口をへの字に曲げて、考え込むように視線を地面に落とした。暫く眉を顰めていたが、やがて開き直ったように顔を上げる。
「知らない。前の私みたいな嘘をついてる気がする。解らないけど」
「自分さえも騙すような嘘という事?」
「知らないってば! もういい、私、遠慮しないからね。聞きたい事があったらすぐ聞くし、思った事があったらすぐに言うから。二十九歳のいい大人なら、逃げずに堂々と構えて返してね」
セルゲイは肩を竦めた。彼が白い絆創膏と包帯に傷を包まれ、白い患者着を着、髪を下ろしている事に注視しなければ、ここが病院であることを忘れていたかもしれない。何時も通りに、セルゲイは穏やかに揶揄するような笑みを浮かべた。
「今までも必要以上に堂々としてるつもりでしたが」
「そうじゃなくて、何ていうか」
「あと、私はまだ二十八歳です」
「……もう! ばか坊主」
雛菊は頬を膨らませて椅子に背を預けた。抱きしめた刀を持つ左手に、僅かな熱さを感じる。
長老がふと静かに口を開いた。
「ミネルバが行方不明です」
その告白に、少女は一瞬虚ろな目で手元に目を落とす。熱いはずだった。髪を切るついでに、左手も少しだけ斬ってしまっていたのだ。赤い血を眺めながら、雛菊は「どうするの」と尋ねる。
「警察が捜しています。私もこれから捜しに行くつもりですが、貴方はここに居て下さい。まだ外は危険ですから」
「聞くと思う? 怪我をしている貴方を差し置いて?」
「思います。貴方を信じます」
前科がある私に対して本気で言ってるの? それとも冗談で言っているの?
そう笑おうと思って、雛菊は目を伏せた。セルゲイが落ち着いた男で本当に良かったと思う。彼が静かなお陰で、周りの人達が消えていく、この笑える程に無邪気な悲劇を、雛菊は冷静に直視することが出来た。
思いがけず落ち着いている少女を見ても、セルゲイは何も言及しなかった。叔父レンドラの死を聞いた時と似た静寂だが、雛菊の心情はまるで正反対である事に気付いているのかもしれない。或いは、気付いていないのかもしれない。ただ、
「許してくれるんですか? 貴方の父を、刺した事を」
とだけ訊いた。
「私が許せないのは、あなたを許す私自身。あなたは全く悪くないの、セルゲー。悪いのは多分、クラウン……赤蟲の住人や、砂月よ」
「……そうですか」
そう、セルゲイは自分を守る為に仕方なく風散を刺した。その行為自体に許す許さないも無い。ただ、風散が死んでいた場合にはきっと許せなかった。その矛盾に対する懊悩はまだ雛菊の中にある。
――そんな過ぎ去った未来の事を考える行為自体、無為にも程があるのかもしれないけれど。
つまらない悩みにも心を砕いておきたかった。そうでもしなければ、青年と自分の繋がりを確かめる手懸りを失ってしまう気がしたからだった。
「それは?」
セルゲイが目で雛菊の手元を示す。少女はもう一度左手を持ち上げると、小さく笑ってみせた。
「ちょっと、切っちゃったみたい」
親指の外側に、小さな切り傷が先程よりは長く赤い涙を流していた。セルゲイはそれを見るや、心底呆れたように苦笑し、馬鹿ですね、と呟く。
「刀なんかで切るからです。先生に言って、絆創膏を貰ってきなさい」
「うん。……ねえ、世間的には私って身請けされたのよね? いざという時には、セルゲー、責任取ってくれる? 焔蓮華がアイフォン人に続いてアッシムカ人と結婚なんかしたら、砂月がまた殺しに来るかもしれないけど。セルゲーなら大丈夫よね」
セルゲイは今度こそ言葉に詰まった。そして何時に無く真剣な表情で病室の隅を凝視し始めたところを見ると、その質問は視野に入れていなかったようだった。「前向きに、」と唸るように声を出す。
「検討します」
「ありがとう。冗談よ」
雛菊は背を向けると、作った笑みを強張らせて部屋を出た。警察のところに居る、と言って。
矢張り笑い顔を作るのは上手くいかない。彼の笑顔は完璧すぎる。まるで、それが本物であるかのように。
廊下に出たその足で階段の方へと歩き、セルゲイの病室とは対面する側にあるみすぼらしい小さなドアを一瞥すると、雛菊は周囲を見回した。幸いにして誰もこちらを見ていない事を確認すると、軋む音を携えてそっとそのドアを開ける。黴臭い匂いが鼻を突いた。
雛菊は、決意していた。
死ぬべき時まで生きること。
それが焔蓮華の復讐であり、矜持であるとした。
そして、知ること。
起こっている全ての元凶を知り、その中で自分がどこに居るのか、そしてあの青年がどこに居るのかを確かめること、それが雛菊の新たな宿望であるとした。
だが、髪を切っただけでは心自体は強くならない。全ての問題に何の解決も投げ掛けない。ただ、暗示をかけるだけだ。自分は強くなったのだと。
けれど、今はそれだけでも十分だった。
部屋に入り込むと、ドアを指一つ分だけ開けて雛菊はしゃがみ込んだ。薄暗い掃除用具を収納する部屋に、一条の細長い光が雛菊の金色の瞳に降り注ぐ。ここからは丁度良い具合にセルゲイの二一一病室の扉が見えるのだ。彼の部屋に出入りする人間は全て確認出来る上に、あちらからここが見える事は無い。
知らなければならないのだ。
彼がどこまで本当の事を言っているのか、それとも全部、嘘なのか。
彼を信じる為に、知らなければならない。
四半刻もしない内に、普段着に着替えたセルゲイが出て来るのが見えた。何時もの黒い司祭服は、上着が穴と血に汚れた為か、着ていない。頬の絆創膏が無ければ、怪我などどこにも無い様に見える。その足で彼は三階に上がって行った。
風散に会いに行ったのだろう――雛菊は、まだ耐えた。
本当は話を盗み聞きしたいが、警官もいる上に、聡い長老が彼女に気付かない訳が無い。だから、待った。セルゲイが風散に会った後にどうするのかを見極める為に、膝を抱えて、薄暗い部屋の中から外を見守っていた。
静寂の合間に乾いた左手の血を舐め、渋い苦味に眉を顰める。
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