血よりも強く 第5章「インドリクの鳳声」  49* 服従する者




 金の至宝には妙な魔力がある、と臍を噛みながら思った。廊下は暗く、曇り空の光では隅々まで暗がりを照らし上げることは出来ないようだった。旧キセーの軍病院とここの違うところは、呻き声のしない点だろう。
 痛痒の消失した胸を押さえて、セルゲイは長年病魔の足跡を刻まれ続けた階段を昇った。
 もう一人の兄弟の事など、何故告げなくてはならなかった? 告白しなくても問題ない事だったのではないか? 情に絆されて琥珀に惑ったか、それとも麻薬の所為で精神が高揚していたのか。
 その時、痛みを献上する代わりに明晰な意識を下賜された彼を、目聡く見つけた者が来た。
「お前が言っているのはどっちの事? もし良かったら、セリョージャ、教えてくれないかな?」
 セルゲイは低く小さい声で幻に返した。
「頼むから黙れ。お前ほどお喋りな奴は生きている人間にもいないよ」
「ははッ」
 声は急速に上階へと移動した。反響する低い笑い声が壁の向こう側へ消えても、階段をすれ違う医者も患者も何の反応を示そうとしない。
「まともな振りはやめろよ。おれの問いに答えられない癖に」
 何時もの様に、幻は唐突に現れては唐突に消える。最近は特に頻繁に出て来るようになった彼に、随分と言葉を返すようになってしまった。少し前ならば、何を言われても無視して終わっていたのに。
 この変化は何かの予兆なのだろうか? それとも、動揺しているのだろうか? この自分が? 何に?
「何か?」
 唐突に声がした。顔を上げると、不審も顕わにした若い警官が自分を見上げている。何時の間にか、セルゲイは上階の風散の病室前まで歩んでいた。少しの間を挟む事も無く、セルゲイは返事をした。「いえ、彼に謝りたいのです」
「謝るって? 何故です、長老様。被害者は貴方がたの方でしょう」
「私は神に仕える身でありながら、凶器を手にして人を傷つけました。司祭として猛省し、深甚たる謝意を以って精進潔斎しなくてはなりません。その為には彼の赦しが必要なのです」
 どんな平凡な正論でも多寡小難しい言葉を並べれば、途端に度し難く崇高なものに思えるものだ。特に、彼らのように大学に行かなかったごく普通の人間からすれば、それだけで議論を戦わせる気力を萎えさせる。中等教育もそこそこに警察官になる者が殆どだったし、高等教育以上を受けているものは高官になって現場に来ることなど無いはずだから、セルゲイの読みは正しかった。
「ええ、まあ、それなら別に……。彼も素手ですし、貴方も」
 相手の男はちらりとセルゲイの普段着を盗み見、「特にお互いにとって凶器になるものも持っていませんし。」
 二人の警官は顔を見合わせると、もったいぶった調子で首肯してみせる。難しいことを考えている司祭に対する、彼なりの精一杯の尊大な対応だった。錫杖授与者にそんな態度を見せる事が出来ただけでも上出来だろう。
「ご存知でしょうが、彼は非常に微妙な立場です。犯人かと思えば被害者で、暗殺者かと思えば国王ときた。いや、元王族でしたっけ。とにかく、何かがあっては困るのです。貴方にも、彼にも」
「貴方がたのご心痛は察するに余りあります。私とてこれ以上粉紜を来たすことは望んでいません。ただ話をしたいだけです、お分かり頂けると思いますが」
「分かっていますとも、長老様、貴方がよく理解してくださっているという事を」
 まったく、彼らがジャックやロストスペルでなくて良かった。彼らはまるでセルゲイのことを理解していないのだから。
 もう一度小さく頷くと、警官は道を譲った。病室へと穿たれた扉への道だ。セルゲイは丁寧に辞儀をすると、静かに扉を開き、そして中へと滑り込む。後ろ手に扉を閉めると、閉塞的な静寂が生まれた。アイフォンゼーベルの病院にありがちなことだが、ここも例に漏れず患者の容態に配慮し、壁や扉は厚めに作られている。外の喧騒が体に障るからだ。
 部屋はセルゲイの病室と同じ広さで、がらんとした一人用の個室だった。狭くも広くも無く、窓は閉じてカーテンが下りている。あるのは荷物を入れるための空っぽの棚と、ベッドくらいだった――クラウンは横たわったまま、部屋に入ってきたセルゲイを眺めていた。金の右目と赤の左目、それは余りに人間離れした宝石の輝きで、真っ直ぐ見つめているだけで眩暈がしてくる。
「お前か」
 その呟きに、セルゲイは僅かな眉宇の変化で応えた。背後の廊下にいる二人の警官の気配が、木椅子の上で個人的なお喋りを始めたことを確認して、クラウンに言葉を返す。全ての装飾を省いた、率直な言葉を。
「何故貴方がアニカを知っているのですか? 彼女は今どこにいる?」
「アニカ?」
 クラウンは呻くように呟くと、少しの沈黙の後に続ける。
「憶えていない。憶えていたとしても、話さない」
「話しなさい」
「憶えていない。まさかそんな事を聞きに来たのか? ご苦労なことだ。言ったろう、あれは夢のように消えてしまうものだと。私だって忘れたくて忘れている訳ではない。……てっきり、殺しに来たのかと思った。その短剣で」
 佇んでいるセルゲイの腰辺りに視線を遣る。セルゲイは微動だにせず相手の相貌を見下ろしていた。セルゲイは、腰に先程ロストスペルから返して貰った短剣をさしている。二人の警官は見破ることが出来なかった。出来るはずがない、隠していたのだから。
「貴方に殺したい程の恨みなんてありませんよ、今の所は。それに、貴方は雛菊の父なんですから」
「私でなく、私の体がだ」
「アニカは何処に?」
「しつこい男だな。憶えていないと何度か言った」
 機嫌が悪そうに――それでも完全な無感動に言葉を乗せ、クラウンは視線を外す。遣りにくい相手だと思う。感情が無い人間というものが、これ程までに寄る辺無い存在であるということを、セルゲイは知らなかった。いや、知っていたかもしれないが、相手に回したことが無い。
「分かりました、ではお喋りをしよう。私が勝手に話す。貴方は口を挟みたければ挟めば良いし、面倒なら黙って聞き流せば良い」
 沈黙を是と見做し、セルゲイは椅子に座った。クラウンは瞬いただけだった。
「単刀直入に言うが、貴方はレリックだ。それも千年近く……或いはもっと長く生きている、怨念や生命のようなもの。本体はその左耳の紅い耳飾り。貴方は、例えば細菌や寄生虫のように母体となるものに宿り、その体と記憶の幾らかを自在に自分のものにすることが出来る。のみならず、母体の細胞に異様な治癒能力を付与する。それは通常の数倍の疲労を母体に強いる為、耳飾りを取って寄生から引き剥がしてしまえば、恐らく風散の体も無事では済まない。その左目は――血でしょう? 随分とガタがきているみたいだが、さて、ここだ。貴方はそんな体を捨て置いてさっさと新しい母体を見つけたいはず。機会もあった。雛菊がここに来たし、間抜けそうな警官もいる。もし私が貴方なら、さっさと新しい健康な体を手に入れますね。それをしないのは……いや、その前に、貴方が特に何の矜持も無くただ行動している点に注目しましょうか。五年前に風散は殺されかけ、同時に貴方に寄生された。彼は雛菊の話の中では致命傷を負っていたはずだから、貴方の治癒力で治して逃げたのでしょう。貴方に風散の体を与えた、灰色の瞳の男と共に。そして今、娘である雛菊を殺そうとこの国にやって来た。つまり、話は簡単です」
 セルゲイは少し間を挟んだ。
「貴方は貴方を生んだ・・・人間に絶対服従の、傀儡だって事ですよ。赤蟲の住人。ついでに今は九割九分、軍の関係者だ」
「驚いたな」
 クラウンは驚いていない顔で呟いた。ちぐはぐの虹彩で輝く瞳は、天井の染みを凝視している。
「お前は賢い」
「少し考えれば馬鹿でない限り分かります。ここからが妙な話なんですがね、クラウン。今、雛菊と貴方が生きている事で、黎花が大騒ぎをしているんですよ」
 そんな情報は無い。少なくとも、今の段階ではセルゲイには確認する猶予も術も持ち得なかった。完全な憶測で、つまり、彼は鎌をかけた。
「演技ではなく、恐らく心底驚愕している。何故なら、隠密に、それは終わったことのはずなんですから。五年前に、焔蓮華は全員死んでいると知らされていた」
 セルゲイは薄い色彩の目を光らせる。
「依頼主の黎花さえ騙していましたね。何故? そうする事でゾルドバス国にどんなメリットが?」
 クラウンは黙っていた。ゾルドバスという言葉にも反応せず、変わらずじっと天井の染みを眺めている。まるで染みの紋様に知己の姿を探しているような、茫漠とした瞳に天井を映していた。
「多分、」と小さな声で言う。
「全ての人間が、合理的な欲の元に行動すると考えるから分からなくなるんだと思う。世の中には、居るものだ。理由も無く、単なる興味や好奇心だけで行動する人間が」
 自らの憶測が的中しても、セルゲイにの胸中には何の感動も生まれない。そのような人間の存在が忌まわしいものであるかどうか、彼には判断がつかなかった。ただ、ある人間がおかしな事を考え、黎花の為ではなく自分の気紛れで焔蓮華を離散させたという事実だけは、心の中に濃く書きとめておく。
 任務に失敗した捕虜が、天井に視点を置いたまま目を閉じた。
「聞きたい事があるなら、私の主に会え。何の考えも無しにこんな不様な事態を起こす奴ではない。あれでも私の親の中では、愚かだが頭は良い方だ」
「……なるほど。私の友人が誘拐され、貴重な遺産が盗まれたそうですが、それも貴方の賢い上司がやったんでしょうね。ゾルドバス人の考えることは凡人には聊か理解が追いつかない」
「そんな事をしたのか? 面白い。彼を知る者にとってはそれは当然の行いだ」
 僅かに笑みを含んだ声は、主に対するかすかな誇りに色付いている。感情が無い訳では無いのだ――恐らく、ただそれをどう扱えば良いのか理解出来ていないだけなのだろう。寝物語に厚い聖書を与えられ、首を傾げる乳児のように。
「アニカと何処で会ったのですか?」
 もう一度訊く。クラウンは薄く目を開け、嗜めるように返した。
「いいか、男よ。私は人間ではない。人間が、人間ではないと認めるものだ。お前達が遺産と呼んでいるものの一つだろうし、だからと言って強大な力を持っている訳でも野心がある訳でもない。それ以外は私は私が誰であるのか、何時から存在しているのかも知らない。そして私はお前には興味が無い。アニカが何処にいるのかも知らない……」
 消え入るような語尾の後、矢庭にクラウンは息を潜めるようにして相手の顔を見つめた。驚愕の色で金と紅を煌かせ、初めて興味深そうにセルゲイの顔を正面から射抜く。
「そうだ、思い出したぞ。もう一人いたな。アニカを探していた人間は沢山いたが、お前のような人間がもう一人いた。お前、そうだ。お前の名は」
 その刹那、扉がノックと共に開いた。
「回診です」
 変に高い声で壮年の医者だか衛生師だかが入って来る。廊下では雑談を終えた二人の警官が扉の隙間から中の二人を覗いていた。セルゲイはクラウンから目を逸らすと、踵を返した。去り際、クラウンが小さな声で言った。
「お前も欲望の為だけに血を紡ぐ者か?」
 キセー語だった。医者と警官達は、それが黎花の言葉かどうか、少しの間考えを巡らせただろう。セルゲイは返辞をせずに、警官たちに会釈すると、そのまま階段目指して死の影に彩られた回廊を進む。
 ――欲望の為だけ? 勿論、それを欲望と呼ぶのならば。
 雨の匂いが強くなってきている。セルゲイは曇天を一瞥し、再び視線を前に戻した。急がなくてはいけない。

 ――欲望の為でもなければ、自分がこんな場所でこんな姿でこんな血を巡らせているはずもない。
 要は優先順位の問題だ。
 誰だってそうだろう?


   +


 一瞬、別の人間が出てきたのかと思った。普段と違う白い服を着ていたし、思ったよりも長い前髪を額に下ろしていたからだ。それでも、その長身と薄い瞳の色は、彼が他でもないあの長老であることを示している。刺されて臥せっていたはずなのに、セルゲイは平然とした顔で病院の生垣を抜けて通りへと出て行った。
 病院の薄暗いロビーを曇天の下で一瞥し、少しの間を置いてすぐに彼の後を追う。
 この街は人が多い。流れゆく人間の漣が途切れることはないが、その中のたった一人の長身の男を追う事はそう難しい事ではなかった。いつも被っている帽子を上着のポケットに突っ込んで、ジャックは波の泡沫と溶け込んだ。
 これで終わりに出来るという、確信に似た祈願で心を満たしながら。



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