血よりも強く 第5章「インドリクの鳳声」
51* 後悔する者
どうも妙な気配が背後を尾いてくる。
セルゲイは、ソフィア通り方面の煩雑とした小道へと足を進め、色鮮やかな天蓋の屋台通りをすり抜け、表口と裏口の開け放たれた店を素通りし、入り組んだ道を何度も曲がった。やがてグスタフ通りへと帰ってくる頃には、背後には誰もいなかった。振り返り、年老いた夫婦が公園へととぼとぼと歩いていく姿だけが目に入った時、小さく肩を竦め、再び前を向いて歩き始める。
例の暴漢が再びやって来たとも考えられないし――そこまであからさまな悪意は感じなかった――、単なる知り合いか警察かのどちらかだろう。この気配とか殺気とか、訓練された者は押さえ込む事が出来るというが、結局の所、それが気付かれるかどうかは非対象者に依存する。自分に対して向けられている視線や関心に物質が伴うはずもないのだから、要は虫の知らせや勘のようなものがそれらを察知する。どれだけ気配を消そうと努力しても、「嫌な感じがする」だけで気取られてしまう。
セルゲイは兎に角昔から勘が良かった。素人の尾行に気付かないはずもない。
だから、今も目的地を勘で決めていた。いや、勘というよりも、自分ならこうすると想像したのだ。
さらさらと鼻先を霞に撫でられる。霞が煙雨に変わる前に、セルゲイは足を止め、荘厳な装飾に彩られた扉の前に立った。両開きとなるその扉は、長い時を耐えた木製で、黒真珠のように鈍く光っている。いくら彼が磨いても落ちようの無い古い染みや、手の施しようの無い装飾の疵は、ここ数日見なかったものだ。一日以上見なかったのは、初めてかもしれない。ここは神の家であると同時に、自分の家でもあるのだから。
取っ手に触れて、セルゲイは小さく嘆息する。鍵から壊されていた。力任せに無理矢理回したらしい、長老が触れただけでそれは手とは反対の方向へと緩く逃げる。壊れた扉を軽く押し、中に入った。
薄暗い雨雲の光がステンドグラスと窓から射し込み、陳列された長椅子や祭壇を柔らかく照らし上げている。数年見慣れた、古く暗い光景だ。彼は毎日、ここで説教や婚礼の儀、葬式、祭、観光客への相手などを一人で取り仕切ってきた。来る人間は善い者ばかりではない。道に迷った悪人や、物盗りや、気の違った者、物乞い、様々な人間を、この教会は清濁併せ飲んで見守ってきた。
だから、祭壇の神は今も無常な穏やかさで彼らを見つめている。
扉の前で佇む長老と、長椅子に座ってステンドグラスを眺めている男を。
男は、色とりどりの光を放つ硝子を見つめたまま、振り返らずに言った。「嫌な匂いだ。」
セルゲイは、列を成して連なる二つの長椅子の中央を祭壇まで貫く通路まで歩み出ると、男の声に耳を澄ませた。低く、不機嫌な、聞き覚えの無い声音。
「血漿より強く匂う、毒の芳香だ。思うに、この世は慢性的な毒から成っている。均等でない世界は皺が寄って、強い毒が集まる箇所が生まれる。遺産の誕生だ。――これはお前の国の教義にあったか?」
「いいえ、」とセルゲイ。「聞いたことがありませんね」
男は体を捻り、セルゲイを振り向いた。
「お前にも毒の匂いが染み込んでいる」
灰色の暗い瞳の光は、睥睨するようにセルゲイの視線を遡って突き刺さる。セルゲイは、予想せず粟立った腕をそれとなく擦りながら、その目を見返した。この国では滅多に見ることの出来ない瞳だった。全てを軽蔑し、全てを放棄し、全てを憎悪するような、そんな空しい雨雲の瞳。
この男が、普通の人間が決して目にする事の無いものを目の当たりにした、
選ばれた人間であることは明らかだった。思わず腰にある短剣の存在を再確認する。目の前にいる初対面の男は、容易に一線を踏み越えることの出来る者だろう。
「ミネルバ=マッケニーをどこへやりました?」
男はゆっくりと立ち上がる。涅色のジャケットでも、屈強な体の線は隠し切れない。気配を殆ど絶っていることからも、彼が相当な修羅場を潜って来た人間であることが分かる。
そして、その瞳の色が、脳裏で雛菊の言葉と絡み合うのを感じた。男がゆっくりと口を開いた。
「十年前、俺はお前の国で、一番最初に王城に入った部隊を指揮していた。酷い国だった、極寒と餓えで俺の部隊の半分は狂っていた。その内の一人が、玉座に座っていた皇帝を射殺した。生かして捕えろと、言ったはずなのに」
セルゲイは微動だにせず、相手の言葉を聴いていた。静かで低い、深い湖の底から湧き出るような声音だった。
「その時だ、俺のツキが潰えたのは。何を憎めばいいのかも解らないままに結局全てを失くした。何を憎めば良かった? 戦か、銃か、生まれたことか? 理由を求める浅ましい心か?」
「貴方が五年前に黎花にいた事も、その悪運の所為ですか」
男は否定も肯定もしなかった。――つまり、肯定したのだ。
「悲劇は連鎖する、司祭。始まりは光、その中途にお前も絡んできた、それだけの事だ」
瞬間、男が疾風となって迫り、瞬時にセルゲイの眼前に現れた。
目に見えない程の速さで鼻先に突き出された拳を、視覚が得た情報を理解する以前に本能的な動きで叩き落とす。驚愕の息を吐くと、男は既に正面を向いていなかった。咄嗟に両手を頭上に上げ、頭を守るように強固に固めると、恐ろしい重量の上段回し蹴りが手首の下に叩き入れられる。
セルゲイは反撃せずに退いた。相手との間に十分な距離を確保すると、痺れる両腕を僅かに上げて次の攻撃に備える。じわりと、包帯に封じられていた傷跡が呻き声を上げる感触があった。このまま戦えば、再び傷口が開いて血を放出することになる。麻酔が効いているから痛みは無いが、だからこそ恐ろしい。痛みは命を放出する際の警告音なのだ。警告に耳を塞いでいれば、やがて傷の存在にさえ気付かぬまま死ぬ。動く為に打った麻薬が、この状況下では裏目に出る可能性もある。
しかし、相手は既に戦意を消失させたのか、そんなセルゲイの心中にも構わず、無防備に佇んで彼を見つめるだけだった。
「いい、分かった。早速だが本題に入ろう」
「――貴方、マイペースだと言われませんか?」
呆れたような非難の声を聞き、初めてセルゲイが大儀そうに腕を擦っている様子に気付いたようだったが、すぐに視線をセルゲイの瞳に戻した。
「俺の仲間が一人、暴走した。少なくとも娘を殺すまでは止まらないだろう。あれは全く俺の本意ではない事を知っておいて貰いたい」
「蒼い髪の男ですか? 監督不行届きですね、銀の獅子が聞いて呆れる」
男は少し驚いたように片眉を上げた。セルゲイは擦っていた手を離す。
「さっき貴方が自分で言ったでしょう。王城を制圧し、皇帝を殺害した部隊の隊長だと。銀の獅子、ハインリヒ=エンデでなければ誰だと言うんです?」
そうか、と返し、エンデは少し考え込むように眉を寄せた。セルゲイがそこまで詳しく知っていた事に意外なものを感じているのかもしれない。傍目には、恐ろしく機嫌を悪くしたようにしか見えない相貌だったのだが。
「すまんな。俺は元々人を使うような器では無いから――まあ、つまり俺の責任だ」
「それで、条件は?」
エンデは小さく頷いた。
「二つ。俺達の事は他言無用。それと、至宝についてお前の知っている事を全て吐いて貰う。代わりに仲間の不始末は俺が補う。あの女長老も返す」
「割に合いませんね。少なくとも雛菊から手を引いて貰わなければ」
「引くさ、今回も。とても自然な形でな」
それきり二人は黙り込んだ。
聞きたい事は山のようにある。例えば、クラウンの事。何故風散に赤蟲の住人を植え付け、雛菊を殺させようとしたのか。次に、大聖院にあったレリックを盗んだ事。そんなものがそこに存在することを知っている人間は少ないはずだし、保管庫に入る為には身分証明として院が司祭に配布する念珠を提示しなくてはならない。そのシステムを知っている人間もまた、それほど多いはずは無かった。外国人であればなおさらだ。
「貴方達は随分とレリックに近いようだ。雛菊を襲った武器、貴方が盗んだもの、そして至宝。ゾルドバスは何を考えている? 雪の至宝を手に入れてどうするというのです?」
「雪の至宝? 俺が言っているのは金の至宝、焔蓮華の瞳のことだ。雪の至宝がこの国にあるのか?」
「何?」
唖然とした。
当然、この人間も雪の至宝に関して興味を抱いていると思ったのだ。それなのに、エンデは怪訝な表情でセルゲイを見つめている。それが演技かどうか、今は判別がつかなかった。
エンデはセルゲイを睥睨すると、もう一度低い声で訊いた。
「雪の至宝はどこにある?」
セルゲイは首を振る。何度答えたか分からない言葉を、もう一度繰り返す。
「知りませんよ。どこにあるかはおろか、存在するかどうかさえ」
「なら、伝説で良い。金の至宝と雪の至宝の力は?」
「金は、単なる身体的特徴のはず。雪は、所持者に莫大な富と名声を」
「そうか。糞の役にも立たん」
つまらなそうに呟く男に、セルゲイは初めて僅かな親近感を覚えた。それに関しては全く同意だ。頷く代わりに、セルゲイは質問で返した。
「これで取引は成立ですね。私は厄介事は嫌いだ、貴方達の事も教会から一歩外に出れば全て忘れる。ですが、これだけの嫌がらせにあったのだから、一つ二つ訊いても神罰は当たらないでしょう?」
「答えられる事ならな」
エンデは相変わらず抑揚の無い、憤怒しているような相貌のまま腕を組む。クラウンと違い、妙に合理的な男だと思った。軍人としての自分に忠実であるというより、自分自身の目的に忠実であるという印象を受ける。その辺りは、自分と似ているかもしれない。
「クラウン――風散に関してですが、全く理解が出来ない。一度娘から奪っておいて、再び暗殺者として現すなんて、どうかしている。非合理的だ。貴方の上司の命令ですか?」
「上の命令だ。だがクラウンはあの娘を殺せない、決して。上はそれが予測出来なかったようだがな。折角返してやったんだ、精々大事に扱え」
「ならば、貴方はクラウンが実質的に捕虜となっている今の状態を完全に予測し、それを良しとしていた事になる。……一体何を考えているんですか? 貴方も、組織に属しながら私利私欲に走る人間ですか」
「全ては私利私欲に帰趨してることくらい知ってるだろ。くだらない質問をするな、敵の敵は味方じゃないんだ。次」
灰色の髪をかき上げ、唸るように言う様は、獅子そのものだった。セルゲイは次の問いに移る。エンデは、何度尋ねられても自分で必要だと思った以上の事を、絶対に話さないタイプの人間だからだ。
「貴方が盗んだレリック。それも上の命令ですか? それとも、貴方が単に個人的な理由で仕事からかけ離れたことをしているのか?」
エンデはじっとセルゲイの顔を凝視していた。お互い初めて見る顔であるはずなのに、彼はまるで記憶の底をさらうようにセルゲイを見つめる。青年の相貌を、自分の胸の奥に存在する沢山の断片に当てはめようとしている様に見えるのだ。やがて彼は質問で返した。
「俺も聞きたい事がある。お前は全ての件に全く関係の無い人間なのか? それとも十年前、あの場所にいた人間なのか? 雷動の、キセー帝国に」
「全てとは?」
全部だ、と曖昧に断言するので、セルゲイも断言する。
「帝国が消えた時には私はこの国にいた」
「分かった。はっきり言おう。お前の問いの答えは後者だ。そして私の問いの答えは、恐らく後者ではない。だが前者でもない。まあ、だからと言って、俺には関係の無い事だがな。例えお前が何を守ろうと、何を隠そうと。……暴走した部下は俺が止める、あの女も無傷のまま返そう。お前は大人しく娘の傍に居るがいい」
質疑応答が終わる合図だった。セルゲイは何度か薄く頷くと、エンデに対する合意と決別の宣告をした。
「黎花国さえ奇妙な私欲の為に謀った、貴方の後ろにいる人間が誰なのかは判りません。想像の域を出ない。けれど、今回だけは何も無かった事として手を打ちましょう。しかしこれから先、彼女に何かがあった時には、貴方も貴方の背後の人間も、私が殺します」
静かな言葉に、相手は驚いた様子も見せない。軍にいる者には「殺す」は脅し文句ではない。宣告だ。
エンデは相変わらずの気難しげな表情のまま、面白くもなさそうに呟いた。
「どうやらお前も、軍人気質らしい」
そしてゆっくり扉へ向かって歩み始めながら、独り言ちるような声音でセルゲイに言った。
「二つのものを同時に守り切れる訳がない。墓石を彫りながら棺桶に入ろうとするようなものだ、何時か一気に瓦解する。その時にお前が出来る事といえば後悔すること、それだけだ」
「これで万事丸く収まります。その為の取引でしょう?」
そうか、とエンデは扉を見据えたまま返す。
「何時だって崩壊の始まりは、気が付くと既に忍び足で歩いている。影に食われんように気を付ける事だな」
すれ違いざま、矢庭に彼はセルゲイの左胸に掌を押しつけた。麻薬で温く覆われた不吉な痛みに、セルゲイが上体を捩って相手の手を振り払う刹那、青い光が視界を覆った。淡い水色のヴェールが落ち、何が起こったかを理解する前に、全ては元に戻っていた。目の前に灰色の宝玉がある。長身のセルゲイに負けず劣らず背の高いエンデが、無遠慮な視線でセルゲイの瞳の最奥を突き刺していた。
見られた、と咄嗟に感じた。
身の上や過去ではない。エンデは、懐古するような嫌悪に満ちた目でセルゲイの本質を凝視したのだ。
「俺は神を憎む。きっとお前も……」
その言葉はセルゲイにというよりも、自分自身に対する憎悪に揺曳していた。
「天使は」咄嗟に後姿に向かって声を上げる。
「天使とは何ですか?」
灰色の髪の男は振り返らない。ただ、壊れた扉に手をかけ、足を止める。
「俺達の上司が気に入ったもの。俺達は、天使の模倣だ」
そして一瞬、扉から漏れる霧雨の光を反射させる灰色の瞳で、顔を横に向けた。ゾルドバス人独特の、高く形の良い鼻梁が、外界の光の中でぼんやりと輪郭を結ぶ。
「司祭、お前は面白いが頭が固い。帝国が滅亡する直前に、雪の至宝が何者かによって奪われたという可能性は? 富と名誉を与える至宝を失くしたから帝国が滅んだとは考えられないか?」
数刹那の沈黙の後、
「俺は考えないがな。神の御力で争いが止まるなら、俺は国中の司祭に百万回のキスをやろう」
「私は今、神が無力であることを感謝するべきなんでしょうね?」
エンデは初めて、笑みのようなものを作った。口の端を皮肉げに上げる、揶揄するように鋭利な微笑。それでも、その横顔は今までの不機嫌な相貌とは比較にならないほどに柔らかいものに見せた。
扉をすり抜ける風の様に大柄な後姿が消え、跫が聞こえなくなって初めて、セルゲイは左胸に触れた。そして、彼がどんなレリックを盗んだのか、どんなレリックを求めているのかを完全に理解した。
胸の傷は、完全に消えていた。
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