天使症候群 2003.04.06
天使症候群、というらしい。
今際の際に光に包まれた愛らしい天使が降りてきて、そっと額に触れ、静かに命を奪って逝くという。それはまるで欠伸か溜息のようにごく自然に訪れ、どんなに外を元気に跳ね回っていた人間をも殺してしまう。ほんの短い時間で。
伝染病か生物兵器が原因の幻覚ではないか、という説が最も有力だった。だがその菌が見つからない。原因も対処法も見つからない。あっという間に世界中の人間がどんどん死んでいった。詳しくは知らないが、十分の一にまで減ったと大分前の新聞の見出しに出ていた気がする。
私はこのところめっきり鳴らなくなった携帯電話を撫でると、ベッドの上に放り投げた。そのまま部屋の真ん中に佇み、朝の光が漏れるブラインドを眺める。雑然とした部屋は何の温もりもなく、無機質な埃が宙を彷徨っていた。外は静かだった。新聞配達員も、会社員も、小学生も、誰一人歩いていない。
みんな死んでしまったか、死を待って家に閉じ篭っているのだろう。
寝癖のついた髪を一房掴むと、軋む筋肉を叱咤して首を捻る。黒い箱が目に入り、何とはなしに表面に添えられた突起を押す。じ、と音がして、音楽が流れ始めた。モーツァルトのレクイエムだ。画面はテレビ局の屋上に取り付けられたカメラが捕らえた、東京の景色だった。曇りがちな朝の光に照らされ、小さな建物やわずかな緑が控えめに輝いている。
私はぼんやりとその景色を眺めながら、美しい旋律に聴き入っていた。
九割――いや、あの記事の直後に新聞社が運営を停止して大分経つから、もっとだろう。九割五分。死んでしまった。天使に殺された。
せめて最後にレクイエムをというテレビ局の配慮と善意は、テレビジョンというものが発明されて以来、彼らの最高にして最後の功績だと思う。また、未だ電気が通っているということは、まだ律儀に仕事をしている人間が居るということだし、彼らも同じく偉大だ。普段通りの生活をしながら死を受け入れようという姿勢は、大したものだ。
翻って私は、とうに会社に行くのを辞めて家に閉じ篭っていた。天使症候群が恐ろしかったからではない。丁度良かったからだ。
私はこの世界を厭うていた。私の娘がたった五年でその生涯に幕を下ろした瞬間から、私にはこの世界に価値を見出すことが不可能になっていた。惰性で生きてきたが、心底どうでもいいと思っていた。本当に、心の底からだ。だからこれ幸いと生計を立てる努力をいの一番に放棄した。世界の終わりに合間見える事が出来るのは、幸運だとさえ考えている。
喉が渇いた。
足の裏を伝わる冷たい床の感触も噛み砕いて、台所に行く。冷蔵庫を開けると、中のものは殆ど無くなっていた。店が暴徒に荒らされ、配送業者も来なくなったため、買い足しをすることが出来なかった。
冷たい唸りの中、奥でぽつんと座り込んでいるミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、一気に飲み干す。痛みすら伴う冷えた水は咽頭を下り、胃の中に落ち込んでいった。口を離し、大きく溜息を吐きながら耳を澄ます。聴こえるのは、レクイエムだけ。
私はずっと会わなかった妻の顔と声、匂いを脳裏に浮かべた。
ごめんなさい、と。彼女はこの四年、それしか言わなかったような気がする。私は何も応えなかった。首肯も拒絶もしなかった。そこに価値を見出すことが出来なかったからだ。憎んでいた訳でもないが、何を言っても正解ではないという直感があった。彼女はそんな私と居なくなった娘に謝り続け、もう随分と痩せていってしまったように思う。
先日、三年ぶりに彼女が私の家へやって来た。幸いにもまだ彼女には天使症候群が訪れてはいないようだった。
「ちょっと、海へ行かない?」
四年ぶりの笑顔と、それでも寂しそうな声音で、彼女はそう言った。私は初めて首肯し、人気の全く無くなった初春の海へと車を走らせた。
浜辺に二人で立って、何をするでもなく、ただ海がうねるのを眺めていた。空の光が変わるにつれて、青から紺、紫、金と様相を変える溟海《めいかい》を見つめていた。座り込んだ私の隣に、何時の間にか妻が寄り添っていた。美しい真紅の空を眩しそうに眺めてから、彼女はぽつりと呟いた。
「綺麗ねえ」
「……うん」
「何時もこんなに綺麗だったのかしらね」
「そうかもね」
「勿体無いことしたわ」
嬉しそうに含み笑いをしてから、彼女は私の肩に頭を乗せた。波の音と、潮の香りと、夕陽の射光の中で、彼女の存在はごく当然で、世界の中枢を成していた。私達は黙り込んで、太陽が海原へと沈んでいくのを見守っていた。
「聞こえるわ、声が」
小さな世界の言葉が響く。
「好きだって。ほんとは、好きなんだって。認めたくないだけだって」
私は答えなかった。
妻はもう一度含み笑いをしてから、私の肩で囁いた。
「ごめんなさい。わたし、幸せだった」
どの言葉も正解では無い気がして、矢張り私は黙り込んでいた。やがて空が紫紺に染まり、数多の星が輝き始めてから、私は冷たくなった妻の体を砂浜に横たえた。涙が止まらなかった。
彼女はどんな天使を見たのだろう。幸福に満ちた想い出だけで作られた棺に、その体を横たえてくれたのだろうか。
私は部屋に戻り、ベッドの上に座った。レクイエムはまだ響いている。両目の間に指を押し当て、強く揉むと、ふと閉じた視界の上で光が閃いた。暖かく、柔らかい、静かなその光は朝日のようにゆっくりと広がってゆく。
私はそっと目を開けてその光を見つめた。
暖かい。これが死なのだろうか。これ程までに優しいものを、死と呼んでいいのだろうか。私はじっとその光が徐々に形作る輪郭を見定めようと凝望する。やがて光は小さな人間の形を作り、ゆっくりと私の眼前に降り立った。
嗚呼――。
私は溜息をついた。そして微笑む。
「理香」
天使の名を呼んだ途端、様々な想いが溢れ出してきた。
そうだ――正しい想いなどない。正しい言葉などもない。逢えて良かった。生きて、良かった。この感情だけが全てなのだ。
愛しい笑顔でそっと小さな手を差し出す天使を見つめながら、私は妻の幸福に満ちた相貌を思い出していた。
もしも正解に近い言葉があるとするならば、あの時、愛してると言えばよかったのだろうか。
天使が無邪気に笑った。
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