毛の無いペットの抱きしめ方    2005.12.17

「一月ちょっとかなあ、なに、大した用事じゃない。学会さ。学会と言っても偉そうにふんぞりかえって紅茶を飲んでサッカーの試合について語り合うだけだから、オフ会と言った方が早いかもしれない。でもこれが僕にはとても大事な仕事でね、例えて言えば大晦日にテレビのチャンネルを替えられないようにリモコンを確保するくらい重要なことなんだ。だから一月だけ、藍子ちゃんに僕のペットの世話をして欲しいんだ。いや、餌をあげるだけで良い。そう簡単に死ぬような……ああ、いや、飼うのが難しい動物じゃないから大丈夫。主に野菜を食べるけど、林檎だけはあげちゃ駄目だよ。死んじゃうから。それじゃ、よろしく」
 そう言っていつものように軽薄な笑顔で去っていった従兄は、実は私と血縁関係は無い。
 今の母の甥なのだが、彼女は後妻で、私の実母は冷たい土の下。
 だから何故、直接に血の繋がりの無い従兄が私に親しくしてくれるのか長年の疑問だったが、私もそろそろ中学生になることだし、その理由についてはなんとなく理解しつつある。彼はとても「ヘン」なのだ。
 十二月の凍てつく空気が肺を凍らせないように静かに息をしながら、私は従兄の家に行った。古い借家でも鍵だけは頑丈で、合鍵と一緒に綺麗な銀色の光を放っている。空っぽの家の中は外と大して変わらない気温で、そっと息を吐く度に薄く白いもやが天井へと消えていく。
「お邪魔します」
 誰もいないから返事は寂しくて当たり前。
 私はさっさと上がりこみ、一つ一つの部屋を覗き始めた。そういえば、従兄はどんなペットの世話をして欲しいのか、詳しく教えてくれていなかった。私はてっきり猫か犬か鳥だと思ってたから、従兄の注文通りの野菜以外にも、缶詰を右手の鞄の中に詰め込んできた。
 どんな子だろう、可愛いかな。可愛いよね。毛が多いかな。
 うきうきしてた。それは仕方ない。だって私の家はお母さんが死んでからマンションに引っ越したし、今の母は動物の毛アレルギーで咳やくしゃみが止まらなくなるしで、友達の家の猫を撫でた帰りもコロコロで全身を撫で回さなくちゃならない。今も缶詰の下に毛を取るためのガムテープをちゃんと用意してある。
 藍子十二歳にとって最も欲しくて最も手に入らないもの、それがペットだった。
「でも亀とか蛇とかはちょっと違うんだよね。ふわふわの毛がいいの、毛が」
 知らず知らずの内に口が笑っていた私は、出迎えてくれるペットの姿を想像しながら、ひょいと最後の部屋を覗いた。
 ひょいと、本当に、何の考えも無く。
 首を傾け、頭から最初にドアの中に突っ込むように、迂闊に。
 もしも私がテレビゲームのゾンビ役だったら、プレイヤーの良い点数稼ぎになるだろう。
 銃弾の代わりに私の目に飛び込んで来たものは、私がどこの誰でここはどこなのかという簡単な意識さえ、まるで綺麗さっぱりコロコロで剥離するように、消し去ってくれた。

「あら、藍子ちゃん、おかえりなさい。今ちょうど羊羹をいただいたところなんだけど、おやつにしない?」
「後で」
 母のいつものおもねるような笑みを両断して、私は自分の部屋に駆け込んだ。
 電話の子機を握り締め、引き出しの中のメモ帳に書かれた長い長い電話番号を打ち込む。指先が震えて、部屋は寒いのに指紋がべったりと汗を吹いていた。
 短い呼び出し音の後、英語で何かを尋ねられる。私は混乱したまま、従兄の名前と部屋番号を英語で告げた。だって他に英語なんて知らない。
「はいはい、藍子ちゃん? 元気?」
 能天気な声を聞いた瞬間、私は唐突に思い出していた。
 そうだった。従兄は「ヘン」だったのだ。
「藍子ちゃんだよね? どうしたの?」
「……どうしたもこうしたも無いよ。お兄ちゃん、あれ何」
 震える声をなんとか抑えて言う。電話の返答には間があった。妙な静寂、後ろめたさの間隔――ではなく、単に外国との通話には時間差があるだけの話。
 従兄は実に明るく笑い声をあげた。
「見た? 見た? 傑作だろ? お兄ちゃんもやれば出来るんだぞ、すごいだろ」
「あれ何」
 誰よりも「ヘン」な従兄は自慢げに事も無げに誇らしげに宣言した。
「ドラゴンだよ」
 ――やっぱり、見間違いじゃなかった。
 私はホットカーペットの上に座り込んだ。
 ひょいと覗き込んだ部屋の中に、物憂げな表情で床に顎を乗せて横たわっていた、見たことも無いペット。緑色の体はびっくりするくらい綺麗に輝いていたし、薔薇色の瞳は猫みたいに黄色い瞳孔が縦に走っていた。
 その動物が首をもたげ、迂闊に踏み込んできた私を見つけた。
 一分、二分、どれくらいだろう、私たちはお互いを凝視した。
 私が自失していた心を取り戻すまでの間、緑の動物は私の心を見つめ続けた。
 やがて彼――だか彼女だか知らないけど――が私から目をそらして、再び物憂げに床に顎を置いた瞬間、私は家を飛び出していた。陸上競技みたいな速さで自宅に戻り、マンションのエレベーターのボタンを連打し続け、母の言葉を無視して、こうして従兄に電話をかける。
 そう説明したつもりで、私は一つだけ大きな溜息を受話器に向けて放っていた。
「ドラゴンって言うのはいくつか種類があってね、大きく足が何本あるかで分類されてるんだ。足が無くてミミズや蛇みたいなやつもいるし、二足歩行したり、四本あっても二足歩行や四足歩行や歩行無しのやつもいるし、翼があったりなかったりするやつもいる。悪いやつもいれば良いやつもいる。あと毛があったり無かったり。実に多様なんだ。僕のドラゴンは二足歩行型無毛有翼種で、まだ子供だねありゃ。でもあの色は大変珍しい。翡翠色のドラゴンなんて滅多に見られないぞ。良かったね、藍子ちゃん」
 馬鹿じゃないのかこの馬鹿従兄は。
 以前からオカルトだか呪術だか魔術だかに傾倒している「ヘン」な人間だということは知っていたけれど、まさかここまで物理的にヘンな人間だとは思わなかった。
「どこからあんなもの、持って来たの」
「ウフ、知りたい? 実はね、召喚したの。難しい儀式で禁止されてるんだけど、こっそり試したら成功しちゃってさ。僕って意外と才能あるよね、うん。ああ、火を吐いたり飛び回ったりしないから大丈夫、ワシントン条約にも含まれていないから安心して世話してくれて大丈夫だよ」
「……お兄ちゃん、本当は困ってるんじゃないの。学会とか言って、変に召喚しちゃって返せなくなってどうしようって誰かに相談しに行ってるんじゃないの。禁止されてるって言ったよね。やっちゃいけないことなんでしょう」
 従兄は今度こそ沈黙した。
 時間差ではなく、後ろめたさの間隔。やがて途方に暮れたように、それでも軽薄な声で、言った。
「いやあ、藍子ちゃんは頭が良いねえ。ぜひこっちの世界に来て欲しいよ。お願いだから誰にも内緒で僕が帰るまであの子を世話してください。マジで。本気で。一生のお願い」

 夏目漱石全集が良いかな。
 それともドラゴンボール全巻が良いかな。
 私は従兄からの見返りにどれを買わせるか考えながら、実に時間をかけて従兄の家へと戻った。町はクリスマスソングで溢れてるけど、私はクリスチャンではないしサンタも本当はいないことを知っていた。お母さんが死んだ年からも25日の枕元には可愛い包みが置いてあったけど、なんとなく気付いてしまったのだ。
 開け放したドアの足元に散らばった野菜や缶詰。
 踏まないように気を付けながら、私は生唾を飲み込んで部屋に一歩踏み込んだ。
 緑色の鱗を輝かせるドラゴンは、再びやって来た私に視線を向けた。薔薇色の瞳は幼く、まるで子犬か子猫みたいに無邪気で不安の色彩を浮かべている。
「こんにちはー」
 場違いな引き攣り笑いで一歩ずつ近付く。
 馬ほどの大きさもあるドラゴンは興味深げに、それとも警戒するように、顎を上げて私を見つめ続ける。
 二歩近付いたところで、ドラゴンが何故横になっているのか気付いた。床には赤や黒で奇妙な図形が描かれている。ドラゴンは犬で言う所の腰骨あたりから下を床に――図形の中に沈め、まるで雪に落っこちた子供の頃の私みたいに、自由な上半身だけを途方に暮れたまま外界に晒しているのだ。
「召喚、失敗してんじゃん……」
 中途半端に呼び出されたのか、腰から下は床の上の図形の中に固定されていて、ドラゴンは身動きが取れていない。先ほどから困ったように顎を床に置いているのも、ひとしきり動いたあとでどうしようもないことを悟って落ち込んでいるのだろう。
 本当に馬鹿だ。
 あの従兄は。
 私は落ちていたネギを拾い上げて、亀のようにゆっくりとドラゴンに近付く。噛まれたり火を吹かれたりすると困るな――そんなことを考えていた心を察したのかどうかは分からないが、ドラゴンはふいと目をそらして疲れたように再び遠くを眺める。
「あの、お腹、空いてるよね。つまらないものですけど、どうぞ……」
 ネギを差し出す。
 でもドラゴンはちらりとこちらを見ただけで、口を開きもしない。
 私に対する興味をすっかり失って、ドラゴンは体を横たえて部屋の空気を見つめるだけだった。
 どうやっても駄目だった。カルカンも、ネギも、蜜柑も、キャベツも。ドラゴンは口にしてくれなかった。

 毎日がそんな調子で、私は図書館で色々なペットの資料を読み漁ったけれど、何一つ参考にならないまま、ドラゴンは疲れ果てていった。
 もとはと言えば従兄が悪い。でも預かったからには責任は私にある。なんとしても餌を食べて貰わないと、死んでしまう。肉も駄目、野菜も果物も駄目、穀物も駄目。嫌いなんじゃなくて、私から食べ物を貰うのがイヤみたいだった。私が無理矢理呼び出した従兄の知り合いだから?
 なんて誇り高い動物なんだろう。
「藍子、いい加減にしなさい」
 はっと顔を上げると、お父さんの険しい視線が私の顔を打った。
 憂鬱に任せて物思いに耽っている内に、目の前の夕食はすっかり冷めている。お父さんとは逆に、母は悲しそうな、困り果てたような顔で、手元を見つめていた。
「そんなにお母さんの作ったものが食べられないのか。お母さんがお前のためにどれだけ努力しているか、ちゃんと考えなさい。もう中学生になるんだから」
 私はびっくりして、「お父さん、私はお母さんの料理をまずいと思ったことは一度も無いよ」と言いかけて、慌てて口を噤んだ。母のことを言っているんだ。
「ちょっと、考え事してただけ」
 別に母の料理は嫌いじゃない。ちょっと味付けが薄かったり、玉子焼きに砂糖が入ってなかったりするけれど。
 しかし、勘違いをした父は怒りを含んだまま、再び厳しく言った。
「明後日はお母さんの誕生日なんだから、もっといい顔をしなさい。レストランを予約してるから、藍子も来るんだぞ。新しい家族で初めてのクリスマスなんだから」
 その瞬間、私は立ち上がっていた。
 びっくりした顔の二人に、私はひどく冷静に言った。
「クリスマスには、家族で家でケーキを食べるんでしょう。私にはそれがクリスマスだもの。レストランに行きたいなら、お父さん達だけで行って」
「藍子!」
 お父さんの怒鳴り声と、疲弊した母の表情を尻目に、私は家を飛び出した。
 なんで分からないんだろう。
 私は母は嫌いじゃない。私に懐いてもらおうと努力してるのも解ってる。
 でも家族じゃないの。
 私の家族はお父さんと、土の下のお母さんだけ。
 なんで分かってくれないんだろう。

 灯りの消えた部屋の中で、ドラゴンに背を預けて、私はぼんやりとしていた。
 日が落ちるのが早いから、外はもう暗くなっている。宝石のようないつもの翡翠色の光が見えないので、億劫な体で電灯をつけると、ドラゴンはちょっと眩しそうな目で私を見上げた。
「ご飯、食べないと死んじゃうよ」
 いつものように口元に野菜を持っていく。そしていつものように無視される。
「なんで分かってくれないんだろう。お父さんは、あの人が私のお母さんの代わりになると思ってるのかな?」
 ドラゴンは返事をする代わりに、ちらりと私を見た。やはり幼いこの相貌は、疲労と諦観に満ちている。
 私は地べたに置いたビニール袋を開けた。
 サルビアの小さな鉢植えと、チョコレートケーキ。これを買ったせいで私のお小遣いが空っぽになっちゃったけど、お母さんが元気だった頃、玄関にはサルビアの赤い色が飾られて、24日には灯りを消してケーキに蝋燭を立てた。それが私のクリスマス。
 この二つの大事な家族の道具を、お父さんはすっかり忘れちゃったみたいだった。
 地面に並べてみると、ありふれた花とケーキがすごくちゃちに見えて、涙が出てきた。私だけじゃ駄目なのに。なんで分かってくれないのかな。
「逢いたいよね」
 ぼろぼろと涙が溢れ出す。
 私は目を擦りもせずに、ドラゴンの薔薇色の瞳を見た。
「逢いたいよね、お母さんに。逢いたいよね……」
 でも、貴方はいいじゃない。お母さんまだいるんでしょ。このヘンな呪文の書かれた下に、ちゃんと貴方を待っててくれてるんでしょ。私はいない。お母さんは地面の下にいる。
 お兄ちゃんは馬鹿だけど、きっと貴方をお母さんのところに帰す方法を見つけて来る。良いなあ。良いなあ。私も、死んじゃったら逢えるのかなあ。
 ――ああ、そうか。もしかして、貴方も。
 ――だから食べないで、死のうとしてるの?
 私はドラゴンの鱗でイガイガしてる首に抱きついて、子供みたいに泣いた。
 それはすごくドラゴンが羨ましくて、お母さんがいないことが悲しくて、母を受け入れられない自分が情けなくて、死んでしまいたい気持ちだった。
 一緒に逢いにいこうか。
 二人で死んで、お母さんに逢いにいこうか。
「うん……いいアイデア、かも。ね」
 ドラゴンは思ったより温かい。首に頬を押し付けて目を開けると、首をもたげたドラゴンが、私の事をじっと凝視していた。私の提案を受け入れよう――そんな瞳をしていた。
 私は嬉しくなって、また目を閉じた。
 ドラゴンが首をゆっくり動かすのが分かる。伸びをするような筋肉の動きが頬を通じて伝わってきた。
 そして、奇妙な音が聞こえた。
 もしゃもしゃ、ごりごり、もしゃもしゃ。
 そっと目を開けた私は、
「あっ!」
サルビアを咀嚼するドラゴンに驚愕して飛び上がってしまったのだ。
「駄目じゃん、それ高かったのに! こら、駄目だってば!」
 もしゃもしゃ、ごくり。ドラゴンはあっという間に赤い花をすべて平らげ、次にチョコレートケーキも一口でぺろりと食べてしまった。
「あー!! なにすんのよ、私のお小遣いが!」
 半泣きでドラゴンの額をひっぱたいても、ドラゴンはもごもごと口を動かすだけで、そのたびにチョコレートの甘い香りが漂ってくる。何よこいつ、チョコレートケーキのどこが野菜なのよ。私のクリスマスを食べ尽くしたドラゴンは、満足げにげっぷをした。
 薔薇色の瞳は、まだ他にご飯は無いかと私の顔を覗き込んでくる。
 ぽかんとした。私の悲嘆と反比例するように、ドラゴンは俄然食欲を出してもっと美味しいものを食べたいとねだり始めている。
 涙が乾いて頬がぱりぱりになっていることに気付いて、私はなんだか可笑しくなってきた。
「やっと食べる気になったのね、偉い偉い。ちゃんと元気にお母さんのところへ帰らないといけないもんね。痩せてちゃお母さん、心配するもんね」
 私のネギをもりもり食べる翡翠色のドラゴンを撫でながら、すごく馬鹿馬鹿しくなって、すごく嬉しくなって、泣き笑いで鱗に頬を置いた。
 母の気持ちがちょっとだけ解った。
 そして自分がどれだけ子供で愚かで失礼なことを考えたのかも解った。解った途端に恥ずかしくなって、誰も見てないのに誤魔化すために笑う。
 ドラゴンでさえ、時を挟んで私を受け入れたのだ。
「謝り方、一緒に考えてよね。思いやりが無かったのはお互い様なんだから」
 母は母、お母さんはお母さん。
 誰もそれを否定していなかったというのに。
 ドラゴンの咀嚼する動きにあわせて、翡翠色の首に添えた私の頭も上下する。その動きに目を閉じて、私は明後日着ていくスカートの事について考え始めた。




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