染みの呪い    2004.05.12

 この部屋に越してきてすぐ、気になることがあった。
 駅まで徒歩五分、公園が傍にありコンビニもスーパーも歩いて行ける範囲にある。部屋も広くオートロック付きで、ワンルームマンションとしては私にとって申し分の無い物件だった。ただ一つ、下見に来た時にも気付かなかった冴えない欠点さえなければ。
 リビングの壁に、人の形が染みとして浮き上がっているのだ。
 築十年の薄汚れたただの壁だと思ってしまえばそれまでだし、私はホラー映画が好きな上に大して怖がりでもない。しかし、実際はこれが大層問題なのだ。越してきてから毎晩、私は追いかけられる夢をみる。追いかけてきているのはあの壁の染みである。普段は煤みたいな色をしているくせに、夢の中では漆黒の影となって悪鬼のような形相で私を追いかけてくる。追われれば逃げねばなるまい、と私はひたすら息を弾ませて朝日の昇る場所まで逃げる。気が付くと朝である。
 これにはストレスが溜まる。あんな得体の知れないものに何故私が追いかけられなくてはならないのだろうか。ならば逃げずに迎え撃てば良い、と四日目の夜にそう思って追いかけてくる影をじっと凝視することにした。
 どんどん近づいてくる、風のような速さの影。その手の形がいかにも鉤爪状で、骨格は奇妙に捻れ、かの白目が異常に広い面積を占めている事が確認出来るころ、私は矢張り目を逸らして逃げるしかなかった。結局朝になれば妙な違和感と倦怠感が襲い掛かり、ぐったりとするのである。
 一週間目ともなれば、現実生活にも支障をきたし始めた。大学へ行く為に電車のホームで立っていると、誰かが強く私の背を押した。「危ない、」と隣に立っていたスーツ姿の男性が咄嗟に私の二の腕を掴み、私は辛うじてホーム上に留まる。振り返った私の頬を、入ってきた電車の起こす強風が叩いた。
 ラッシュ時の人波の合間に滑るように消えていく影を見たのは、錯覚ではないだろう。
「どうしたの、誰かに押されたの? 普通じゃなかったよ」
 と、男性が思案顔で私に問う。私は、躓いただけです、と頭を下げて礼を言った。
 九日目、教室でぼんやりと座っていた私の肩を誰かが叩いた。飛び上がって振り向くと、友人が驚いた顔をして私の大袈裟な反応を見つめている。
「最近、顔色悪いよ。何か悩みでもあるんじゃないの?」
 元来お人よしの彼女は、痩せて隈の出来た私の事を心底心配しているようだった。年頃相応の悩みであれば華やかで嬉しいのだが、これ程陰湿な悩みもあるまい。机を挟んで向かい合い、私は彼女に例の夢と壁の染みの事を話した。
 すると彼女は驚愕したり唖然としたり戦慄したり、忙しそうに表情と声音を変えて私の話を聞いていたが、やがて目を輝かせて私の肩を軽く叩いた。
「わたし、親類にそういう人いるから、頼んでみる。任せといて」
 そういう人とは矢張りそっち関係の人だろうか。私は曖昧に頷くと、礼を言う。期待など殆どしていない、ただ私を心配してくれた友人の心意気が嬉しいのだ。
 その時、軽薄な電子音を鳴らして私の携帯電話が揺れた。手にとって内容を確認し、すぐに鞄に仕舞う。
「何、友達?」
「うん、まあ」
 最近は空白メールや、「死ね」「殺してやる」という意味不明の恨みがましい文字列が一日に一度は送られてくるようになっていた。このメールは別件で、確りと生きている人間からであり、私は小さく息を吐いた。大体にして反論のしようの無い恨みのメールである。何故ならば送ってきたアドレスを見ると、それは私の携帯電話からなのだから。
 十日目、遂に私は怒った。リビングの染みを仁王立ちになって凝視し、なんとしても逆襲したい、という発作的な思いに身を任せた。蹴っても叩いても相手は何も言わない。ごりごりと拳で壁を削ってみたり、傷になると敷金を取られるのでクッションで何度も叩いたりした。結果として、お隣さんからクレームの電話が来た。
 自分は壁の中から好き放題して良いご身分だな、と悪態を吐きながら私は化粧ポーチを引っ張り出してきた。畏れ多いも糞も無い。相手は染みなのだから。
 私は四千円もしたブランド物のアイシャドウを手にぺったりと付けると、染みの目のあたりにのたりと塗りつける。それだけではつまらないので、アイライナーで際に黒い線を引き、眉毛も今時のはっちゃけた女子高生が好みそうな細く眉山の高いものに整えてやった。
 昔の少女漫画のバンなんとかというキャラクターそっくりになった染みを見て、私は大いに溜飲を下げた。ざまあみろ、陰湿な事ばかりするからだ。これに懲りてもう私から手を引け、と忠告してからベッドに潜った。眠りに入る寸前、携帯電話にメールが来たが、これも生きている人間からである。私はその日、久しぶりに眠りを貪る事が出来そうだった。
 出来そうだった、だけだった。
 夢の中で影は矢張り猛然と私を追いかけてきた。しかも真っ青な濃いアイシャドウに吊り上った細眉で、歪な体をごりごりと動かして疾走する様はB級ホラーの女王のようである。私は結局、朝まで走り通した。バンなんとかに追いかけられる理不尽と違和感に苛まれながら、矢張りその日も怨みがましいメールを無視するのに終始した。
 十二日目、遂に救世主がやって来た。友人の親戚の霊媒師が私の家を訪れたのである。
 半分は胡散臭さで出来た笑顔を作ると、私は彼女を例の染みの前まで案内した。すると矢庭に彼女は飛び退り、数珠と鈴のようなものを構えて口の中でぶつぶつと何かを呟き始める。私は唖然として、壁の染みに向かって手を振り音を鳴らし呪文を唱える彼女を凝視するしかなかった。
 やがて霊媒師は真摯な瞳で私に言う。
「これは、死霊です。不幸な死に方をした女性の霊が、ここに宿っているんです。この落書きは貴女がなさった? とんでもない、怒りを益々煽りますよ」
 宿るも何も冗談じゃない。賃貸契約を結んだのは私だし、家賃を払っているのも私、立ち退かなくてはならないのはあちらの方だ。怒るのもこちらの方だ。まさか居住権が発生するとでも言うつもりなのだろうか、寝言は法廷で言って貰いたいものである。しかしそれ以前に訴える事も出来ない事に気付いていた私は、ただ肩を落として床を見つめた。
 そんな私を見て、霊媒師は慰めるように言った。
「大丈夫、私がなんとかします。近いうちに必ず追い払ってあげるから、任せなさい」
 力強く肩を掴まれ、私は彼女に託してみる事にした。それから二時間ほど、彼女は香を焚いたり塩を持ったり呪文を唱えたり、色々とやって帰っていった。どこか清涼な空気を持ち始めたリビングを横目に、私は眠りにつく。勿論追いかけられたが、霊媒師への期待に満ちていたので足取りも軽く鼻歌混じりに朝まで駆けた。
 十三日目、彼女が事故で入院したと聞いたのは友人の口からだった。車を運転していて、突然ブレーキが利かなくなったらしい。緩やかな坂道でハンドブレーキも確りとは利かず、電柱にぶつかって胸と足の骨を折って救急車で運ばれたと言う。新車なのにおかしい、と友人はおろおろと狼狽して私に泣きついてきた。
 勿論、死霊の所為だろう。何という人間だ、私ばかりか私を救おうとしてくれた人まで殺そうとするとは。怒りの余り、携帯電話に入ってきた「殺してやる」というメールに、「死ね」と返すが、勿論それは私の元に戻ってきた。
 ここで私は一つの決意をした。誰も巻き込まず、たった一人で霊を何とかしよう、と。何かが出来る訳でもない、ただ奴と朝まで追いかけっこをするだけだ。その違和感、倦怠感、怠惰な習慣、想像するだけで気が滅入ってくるが、それもまた試練として受け入れようと思う。殺そうとするならばすればいい、私は必ず生き延びてみせる。
 そう一人頷いている所へ、メールが入った。相手は私の事情を何も知らない知人である。今日、近くで夏祭りがあるから一緒に行かないか、と、つまりはデートの誘いだろう。私は一も二も無く行くと返信し、駅に向かった。後ろに気を付けつつ、柱の後ろで電車が入ってくるのを確認してから乗り込む。戦うべきは死霊であるが、共に生きるべきは人間である。些細な誘いだが、今の私には何よりも嬉しかった。
 林檎飴と花火と金魚を堪能した後、帰ってきた私を待っていたのは嬉しそうに陰険に牙を剥く染みだった。先程までの夏の夜の煙るような幻想的な夢は消失し、目の冴えた私は、やって来た夜の為に気合を入れて寝巻きに着替える。染みの化粧をこそぎ落とし、掌で叩いてから、顔の部分に先程の祭で購入したお面を被せる。セロファンテープでそれを固定し、大きく頷くと、私は戦地へと飛び込んだ。
 その日の夢の中で、私を追いかけて来るのはアイスホッケーの白いフェイスガードを被った黒い影だった。
 それを確認し、私は大いに満足した。
 これである。追いかけ追いかけられるというのは、基本的にこうでなくてはならない。私が長々と感じていた違和感と倦怠感は、これが欠けていたからなのだ。
 私は駆ける一方で、今日のデートの事を思い出していた。一週間前に出会ったばかりの男性だが、医者の卵だということだ。肩書きは正直、どうでも良い。大切なのは、私と彼がお互いに悪しからぬ感情を抱いているという事だ。彼は、また映画にでも行こう、と照れたような笑顔で誘ってくれた。
 緩んだ口元をそのままに、そう言えば彼と出会ったのは死霊が私の背を押したのが原因だったか、と思い出した。にやにやしながら足取り軽く疾走する私と裏腹に、十三日の金曜日然とした死霊は怒りとも焦りとも疎外感とも言えぬ妙な気配を発しながら必死に追いかけてくる。今日は、久々に気持ちの良い朝を迎える事が出来そうだ。




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