宇宙人の足跡 2005.11.07
三日続いた雨があがった日の放課後、ルカが話しかけてきた。
「ねえ、ヒトミちゃん、秘密の場所に行かない?」
ヒトミはエメラルド色のランドセルいっぱいに教科書をつめこみながら、唐突なルカの提案の真意を探ろうと、彼女の一重の目を覗き込んだ。ヒトミの訝しげな表情に気付いたのか気付かないのか、ルカは人懐こい笑顔で周囲を見回す。
それからとっておきの秘密を告白するように、ヒトミの耳に唇を寄せた。
「すごく良いもの見つけたの。誰も知らない素敵な場所、ヒトミちゃんにだけ教えてあげる」
人当たりもよく、おっとりしているルカは、時々不意に誰よりも不思議なことを言い出すことがある。
だからヒトミは、ルカのその突拍子も無いことを言い出す瞬間を心待ちにしていた。彼女はクラスの誰よりも想像力豊かで、こちらが引き摺られてしまいそうになるほど、純粋で確信に満ちた目をしていた。
ヒトミの答えはもう決まっている。
「うん、行く。どこ?」
「裏山」
「裏山? 子供だけで行っちゃ怒られるよ。それに、水溜りで足場が悪いんじゃないの?」
「大丈夫、見つからないもん。そこは入り口からちょっと脇道を奥に行くだけだから、山に登る訳じゃないの」
ヒトミは頭の片隅で、母親の怒声と兄の嘲笑と先生の悲嘆を鳴らしてみたが、ルカの提案の前では大した価値も無さそうだった。行く、ともう一度頷き、エメラルドのランドセルを背負う。
嬉しそうに笑うルカの跳ねるような足取りは、秘密の場所とやらの魅力をどんどん大きくさせる。
水溜りを避けながら、カシャカシャ鳴る二人分のランドセルの音楽と共に、ヒトミはルカの背を追って運動場を突っ切る。彼女のランドセルは深い紫色をしたもの。本当はピンクが良かったらしいけれど、お母さんが頑として許さなかったと聞いた。
ヒトミがネットでエメラルドのランドセルを見つけた時、歳の離れた兄は呆れたように笑った。「時代は変わるもんだなあ」と。
赤も良かったけれど、兄のその言葉に優越感を感じて、ヒトミはエメラルドに決めた。
ふと周囲を見ると、水捌けの悪い運動場は消え、人気の少ない裏山の入り口が深緑色の口を開けている。草いきれの生々しい香りは教室や運動場に無いもので、思わずヒトミは歩を緩めた。
「ルカちゃん、本当に入るの?」
「うん。平気だってば」
ルカはヒトミを見向きもせず、紫色のランドセルを揺らして緑色の小道に入っていった。
仕方なく、ヒトミも恐る恐る山に入る。山とは言っても小さな丘みたいなもので、鬱蒼と茂る森が無ければ山とも呼ばれていないだろう。生息するのも精精がイタチや青大将などで、害のある動物もいないと聞く。
だが、先生が口を酸っぱくして児童だけで入るなと言うものだから、どうしても負い目が拭えない。
土と草を踏みながら、二人はカシャカシャと奥を目指す。
宣言どおり、ルカは小道を逸れて草むらの中へと入って行った。バッタが足にたかり、ヒトミは唇を突き出しながら蹴るように進む。ひっつき虫が生えていたら嫌だから、下ばかり見ていたら、紫色のランドセルにぶつかって立ち止まった。
「着いたよ」
ルカが微笑む。
目の前は青空が広がっていた。上も下も真っ青。
一瞬息を飲んで、ヒトミはやっとその光景の意味を理解した。
丸い広場みたいになっている荒れ地に、大きい水溜りが十個ほど、青空を映しているのだ。水溜りはそれぞれが一メートルちょっとで、結構深そうだった。地上の青空が微風にも揺らがず、鏡のように輝いているところからもそれが解る。
「すごい、綺麗だね! 空の穴みたい。ルカちゃん、いいところ見つけたね」
ヒトミは一番手前の水溜りの縁にしゃがみこみ、中を覗き込んでみた。
二十センチほどの済んだ水の底には、おたまじゃくしが踊るように泳いでいる。
「わあ、いっぱいいるねえ。木村君とか、大野君とかに教えたら喜びそう。蛙をおたまじゃくしから飼いたいって頑張って探してたから」
逃げるおたまじゃくしを人差し指で追い回していると、ルカが鋭い声を上げた。
「駄目、誰にも教えないで。私はヒトミちゃんだから教えてあげたんだよ」
顔を上げて、ヒトミはルカを見上げる。おっとりしているルカが、珍しく真剣な顔で自分を凝視していた。
「うん、分かってる。誰にも言わないよ」
慌ててそう言うと、ルカは安心したように微笑んだ。
「良かった。……じゃあ、ヒトミちゃんには、もっと秘密を教えてあげる。この水溜り、なんだと思う?」
立ち上がって彼女の隣に佇み、俯瞰するように大地を眺める。ぽこんぽこんと地面に現れる青い穴は、ただの水溜りにしては確かに人為的な匂いがした。
ルカの表情を伺うように、ヒトミは唸る。
「ううん、何だろう? 掘られたものっていうより、何かが落っこちてきて穴が開いた、って感じ」
「そう」
満足げに笑みを深くするルカ。大きく頷く時、紫色のランドセルがカシャと一回鳴った。
「これはね、宇宙人の足跡なの」
「宇宙人、の?」
「うん。本当は隕石が降ってきて、ここに落ちるの。でも隕石は実は宇宙人の乗り物で、宇宙人はこの水溜りの下に住んでるんだよ。だから、宇宙人の足跡」
「嘘だあ。ルカちゃん、宇宙人なんて見たことあるの? これ、ただの水溜りじゃん」
「見えるよ、私には」
大真面目に返すルカに、ヒトミは口を噤んで瞬きを繰り返す。
不思議なことを言う子だが、今回は今までの中でも結構大袈裟だ。天国に行く為に紫が必要なの、とか。天国に行く為に毎日お祈りさせられるの、とか。でも私は本当は天国に行きたくないの、とか。そういうのとは今回は質が違う。
「宇宙人の足跡だっていう、証拠はある?」
意地悪く聞いてみても、ルカは真剣な顔で水溜りを指差すだけだった。
「ヒトミちゃんには見えないの? ほら、宇宙人が顔を出してる。水溜りは入り口で、窓なの。私にはどの順番で隕石が降ってきたかも分かるよ。ほら、これが一番目」
少し離れた場所の水溜りに、ジャンプで飛び込むルカ。ばしゃんと水がはねて、彼女のスカートまで濡らして青空を揺らした。
「ほら、これが二番目」
一番遠くの水溜りまで走って行って、水溜りに飛び込む。
「三番目、四番目」
ばしゃん、ばしゃん、ばしゃん。
ルカは次々と水溜りを踏んづけて青空を壊し続ける。
その表情があまりに真剣で、あまりに嬉しそうだったので、ヒトミは足を竦ませて佇むだけだった。靴下もスカートも濡れそぼり、がぼがぼと鳴る白い運動靴で広場を走り回るルカの目には、水溜りの中の宇宙人しか見えていないようだった。
「ルカちゃん、濡れてるよ。私には宇宙人は見えない、それは水溜りにしか見えない。帰ろうよ」
「残念。ヒトミちゃんには見えないのね。やっぱり選ばれたのは私だけか」
「選ばれたって?」
ばしゃん、ばしゃん、壊れたおもちゃみたいにひたすら水溜りを踏んで走るルカは、まるで開かない扉に体当たりしているみたいだった。
「宇宙人がね、私に手招きしてるの。こっちに来て隕石に乗ろうって。一緒に宇宙へ行こうって。私はお母さんの言う天国には行きたくないから、宇宙人と一緒に宇宙へ行くの」
ヒトミは思わず突き抜けるような昼下がりの青空を見上げた。
手を振る宇宙人、おいでおいでをする宇宙人。そんなものは見えない。青い宇宙には霞みのような雲と、草いきれと、鳥の歌う声だけしか無い。
ルカにはそれが見えないみたいだった。彼女は宇宙人だけが見えるようだった。
「ルカちゃん、帰ろう。ここは素敵な場所だけど、ルカちゃんの見せたいものが私には見えないから。ごめんね」
「いいの。私はたまたま選ばれただけ。ヒトミちゃんもきっといつかどこかで誰かに選ばれると思うよ」
水溜りを走り回って踏みしだいていたルカは、足を止めてヒトミに微笑んでみせた。
二人はエメラルドと紫のランドセルを並べて帰路へついた。がぼがぼという足音とカシャカシャカシャカシャと歌うランドセルはうるさくて、裏山のイタチや蛇はきっと大層迷惑しただろう。
ヒトミはもう二度とあそこへは行くまいと誓った。
ルカが見たものを見たくなかった。ヒトミが見えるものを見えなくなるのが怖かった。
「いつ私を隕石の中に入れてくれるのかな」
呟く友達の言葉にも、返す返事は無い。
それからルカは、放課後に何度もあの場所で遊んでいたようだった。
細い両足を水浸しにして、紫のランドセルをカシャカシャ鳴らして、お祈りは嫌だと言いながら、青色の隕石のドアを踏んづけて走る。彼女ももうヒトミを誘うことは無かった。
ある日、ルカは忽然と教室から姿を消した。
親も先生も警察も賢明に捜したが、彼女はこの世界すべてから姿を消してしまった。
ただ、紫色のランドセルだけが、あの広場の水溜りの中にぽつんと沈んでいたらしい。
「ああ、ついに開けてもらえたんだ」
ヒトミはそう思って、空を仰ぐ。隕石に乗せてもらえたルカは、宇宙人と手を取り合って空へと帰って行ったのだろうか。
彼女のいなくなった生活は少し物悲しい。
そんなヒトミの姿を見て、歳の離れた兄は盛んに慰めようと話を振ってくる。ヒトミもその思いやりが分かるから、ルカと話す分を兄との会話で埋めた。
ある日、ふと話したくなって、たくさんの水溜りが裏山にあることを兄にそれとなく言ってみた。勿論、宇宙人の足跡であることは言わない。
すると兄は嫌そうな顔をした。
「あれさ、水溜りじゃなくて、お墓だよ」
「えっ?」
「古い墓らしくてさ、昔は今みたいな火葬じゃなくて土葬だったんだよ。棺桶を入れて土をかぶせると、しばらくはいいんだけど、何年かして棺桶が腐って潰れる。そしたら上の土がどっと下へ潰れて、クレーターみたいにへこんで見えるようになるんだよ。だからあんなところに行くもんじゃないぞ、瞳」
ヒトミは、ルカの思い出に浸るのをやめた。
彼女が何を見、何をし、どこへ行ったのか。
これから一生、もう二度と考えたくない。
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