狼 2005.03.14(2003.04.06)
小さな村があった。
その隣に深く白い森があった。
狼はそこで暮らしていた。
狼は木々の隙間から時折人間の村を覗き見て、その様子を観察していた。
人間は奇妙だった。
いつも大声で怒鳴りあい、殴り合い、狼を殺そうとした。
彼らは、彼らには無い狼の立派な毛皮が欲しいのだと狼は学習した。
だから必要以上に近づかず、遠くから村を覗く。
人間は奇妙だった。
けれど、嫌いではなかった。
ある秋の夕暮れ、狼は噛み殺した鳥を木の虚の中で食べていた。
オレンジ色の光はいかにも暖かそうだけれど、外気はとても冷たい。
冬が近いのは明らかだった。
鳥の肉をくちゃくちゃ言わせながら外を見ていると、小さな影が現れた。
人間の子供だった。
それはこちらに向かって歩いて来て、虚の前に立つと笑いながら言う。
「こんにちは」
狼は返事の代わりに鳥の骨をぷっと吐き出した。
子供は白い小さな骨をちょっと見て、それからもう一度狼を見た。
「こんにちは」
もう食べるものが無くなったので、狼は諦めて子供を見上げた。
「何の用だね」
子供は嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねると、膝をついて座りこむ。
大きなくりくりした瞳が狼を映し、あんまりそれが綺麗だったので、
狼は思わず牙を剥いてそれをえぐってみたいと思った。
「お父さんに、狼さんから毛皮を貰ってこいって言われたの」
にこにこしながらそう言う。
「貰ってくるまで帰っちゃいけないんだって」
狼は黙り込んだ。
それはきっと、嘘だ。
この子供の父親は、この子を村の外に追い出して二度と帰らないように
仕向けたのだ。
狼の毛皮など子供一人で狩れる訳もないし、本当は毛皮を望んでなどいない。
村は貧乏な農村だったので、時々冬が近づくとこうして子供を外に出す。
外に出して、死ぬのを待つ。
口減らしとか言うらしい。
狼は、何人かそうして死んでゆく子供を見た。
しかし、当の本人は何の疑問も抱いていないようで、くりくりした目で狼を見る。
毛皮をくれと言えば貰えると思っている。
狼は少し意地悪を思いついた。
「いいだろう、あげよう。ただし、お前の目と交換だ」
子供は困った顔をした。
「目は取れないようにできてるよ。それに、痛いよ」
狼は答えた。
「毛皮だって取れないようにできている。それに、痛い」
それきり二人は黙り込んだ。
オレンジ色の光が段々黒くなってゆく。
狼は、本当は子供の目なんか欲しくない。
欲しいのは、死んだ後の子供の体の肉だった。
父親に裏切られた可哀想な子供に、その事を気付かせないように、自然に死なせようと思ったのだ。
食べ物が無いのは人間も狼も同じだった。
「じゃあ、目をあげる覚悟が出来るまで、ここにいる」
そう言うやいなや、子供は虚の中に入り込んで腰を下ろした。
尻尾を踏まれて、狼は小さく唸る。
「それまでに、毛皮をくれる覚悟をしといてね」
子供は笑うが、狼は呆れた。
「人間と話すのは初めてだけれども、ずいぶん勝手だな。ここは私の縄張りだ」
「知ってる」
それきり子供は体を丸めて目を閉じた。
狼は耳を前に傾けたまま、その様子を眺めていたが、やがて顎を下ろした。
まあ、いいか。
どうせすぐ死ぬんだから、どこにいたって構いやしない。
それに、人間の子供は存外暖かくてなかなか都合が良かった。
それから冬に向けて、狼は忙しく走りまわった。
木の実や鳥や栗鼠や、食べられるものは食べ尽くさないように計算しながら獲って食べた。
子供はその狼の後ろをついて回り、狼が美味しそうな顔もしないで肉を食べるのを見ていた。
やがて子供の腹の音があんまりにも耳障りになってきた時、狼は思わず兎を子供に放り投げた。
子供は落ちていた木の枝と枝と枯葉を一生懸命に擦って火をおこした。
不便なものだな、と狼は思った。
人間は火を通さないと肉も食べられないなんて。
それに、火は嫌いだ。
ぱちぱち熱くて目がひりひりする。
「火を見なければいいんだよ」
子供の言うとおりにすると、なるほど目は痛くなくなった。
逆に体が暖かくなって、今度は少しだけ羨ましいと思う。
狼に火は起こせない。
尻尾を暖めながら、狼は焼いた肉を美味しそうに食べる子供を眺めていた。
次の日も、次の次の日も、子供は死ななかった。
狼はその原因を知っていた。
自分が肉や木の実やを与えているからだ。
だって、子供の腹の虫がうるさいのだから仕方ない。
放っておけば、死ぬまでに世界の果てまで響くような轟音を作るだろう。
何日かして、獲物にありつけなくなった。
狼はその原因に気付いた。
自分が普段獲る量の二倍だから、二倍の早さで獲物が無くなるのだ。
一日歩いても何も手に入らなくて、狼は子供を見た。
虚の中から外を見て歌っている子供は、まだ死にそうにない。
仕方が無いので、明日日が昇ったらもう少し遠くまで行ってみることにした。
次の日、太陽は昇らなかった。
周りは一面銀色で、今年初めての雪は恐ろしい量で天から落っこちてきた。
狼はとても迷ったけれど、外に出て同じく虚の中で丸まっている動物を探す事にした。
「ここにいなさい」
そう言い残して、降りしきる雪を踏み分けながら歩き始める。
それから子供と子供の親と村のことを考えた。
何故子供を殺してしまわないのだろう。
村のために死んで欲しいから子供に嘘を吐いて外に出した。
そんな手間をかけるより、首を噛みちぎれば一瞬で済むことなのに。
子供だって、親のことを信じながら死ぬより、何も解らないまま死んだほうが楽だろう。
いや、違うのかもしれない。
信じて信じて信じながら死ぬ方が、幸せなのかもしれない。
親も、自分の手で殺すのが嫌なんだろう。
上手い具合に出来ているな、と狼は鼻に積もった雪を振り払いながら思った。
ならば、自分も上手い具合に協力するのが良い。
いつか毛皮をやると嘘を言いながら、子供が力尽きるのを待つ。
自分も随分人間みたいになったと思った。
ふと変な匂いをかいで、狼はぎょっとして立ち止まろうとした。
けれども時遅く、弾けるような痛みが右の前足に走った。
狼は飛び上がって駆け戻ろうとしたが、足が地面から離れない。
がちゃがちゃ言う音と、リズムを合わせて激痛がよぎる。
雪の表面に血が滲み始めた。
人間が秋に仕掛けが罠だった。
普段はこんな遠くまで出かけない上に、今日はこの天気なので、全く気付かなかった。
ひとしきり暴れた後、狼はぐったりと雪の上に横になった。
馬鹿だ。
狼が狼であることを忘れかけていたから、こんな目にあう。
最後の最後につまらない人生だったと後悔した。
それからどれくらい経ったかわからない。
狼のひび割れた耳は小さな声を聞いた。
感覚の無い首をめぐらせると、雪のカーテンの向こうから小さな影が現れた。
「馬鹿だな」
狼は怒鳴った。
「待っていろと言ったのに」
子供は狼の姿を見て、驚いたように立ち止まった。
滲んだ薄紅色の雪に、みるみる絶望に似た色が顔を支配してゆく。
「死んじゃうの?」
「お前もね。帰れ、まだ間に合う」
吐き捨てるように狼は言った。
このままだと子供もすぐ凍え死ぬだろう。
自分だってすぐに死ぬ。
そんな状態で食べたって、子供の肉はきっと美味しくないだろう。
だったら、子供が死ぬ必要は無い。
少なくとも、狼にとっては、無い。
「私の毛皮を剥いで行け」
狼は言った。
「そうすればもしかしたら家に帰れるかもしれない」
帰れないかもしれない。
けれど、もしかしたら父親や村人がこの綺麗な毛皮に感動して許してくれるかもしれない。
狼の毛皮は銀色で、とても美しいのだ。
子供は泣きそうな顔をして、痛いんでしょ、と返した。
吹雪はだんだん強くなってきて、前もあまり見えなくなってきた。
「早くしろ。凍えて死んでしまうぞ」
牙をむいて唸り、狼は子供を脅した。
子供はがたがた震えながら、首をしきりに振る。
「目を」
涙のたまった目を擦りながら、言った。
「目をあげる。目をあげる」
いらない、と狼は叫ぶ。
そんなものはいらない。
あれはただの意地悪なんだ。
交換なんかしなくていい。
子供は叫ぶように言った。
「目をあげるから、一緒にいさせて」
子供は泣いていた。
ぱりぱりに凍った涙は頬の途中で固まって、雪になった。
「一人はさびしいよ。毛皮はいらない。一人にさせたくない。一人にしないで」
そう言って、狼にしがみついてわんわん泣いた。
狼はやっと気付いた。
子供は、父親に捨てられたことを最初から気付いていたのだと。
毛皮を取る必要などないと知っていたのだと。
自分が死ぬ道しか残されていないことを、悟っていたのだと。
狼は頷いた。
雪で半分埋もれた体を動かして、風の盾になるように子供を守った。
子供はくりくりした目で狼を見つめる。
その目が欲しいと言ったことは意地悪だが、その目が欲しいと思ったことは本当だった。
「目、いる?」
体を丸めた子供がそう囁いた。
狼は喉の奥で笑った。
子供の綺麗な目の中で、笑った自分の顔が映る。
「もう貰った」
子供も無邪気な笑い声を上げた。
雪と風は寒くて痛かったけれど、狼にはそんなことはどうでも良かった。
子供の柔らかい匂いに目を細める。
子供の肉を食べないで済むことが嬉しかった。
とても嬉しかった。
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