曲がり角から急いで戻ってきたイフティシャームは、毛を逆立ててジニーの足の後ろ側に隠れました。別に兄弟が怖いわけではありません。驚愕すれば及び腰になるという猫の習性が、彼を逃走に駆り立てるのです。まん丸い菫色の瞳を見開き、曲がり角から目を逸らせずにいる王子を、ジニーはじっと見下ろしていました。呆れているようにも、物珍しげにも見えます。
角から弟王子が五人、かわるがわる顔を出しました。続いて妹姫が七人、それになんと姉姫が一人、順番に顔を出しました。滑らかな褐色の肌に、夜が落ちてきたような美しい黒髪は皆似ていましたが、瞳の色はそれぞれ違っています。皆、勉強や仕事を放り出して、イフティシャームを探しに来たようでした。姉姫に至っては既に夫も子もいる身でありながら、第二王子の顛末を見物する為にはるばる夫の館からラクダを飛ばしてきたようです。リドワーンが速やかに言いふらしたのでしょう。イフティシャームが牙を剥いて睨むと、兄弟の行列の一番後ろに立つリドワーンは、眩しそうに太陽神を見上げながら口笛を吹いて鳩を呼びました。
イフティシャームの弟と妹が、かわるがわる口を開きました。
「兄上様、どうして猫になっちゃったんですか?」
「お気の毒に、さぞお辛いでしょう。僕が代わって差し上げたい」
「きっとどこかの魔神を怒らせるような事をしたんでしょう」
「兄上なら在り得るよね」
「お兄様ったらいつもろくでもないことばかりするから」
「きっと昔、三柱神の頬っぺたにらくがきをしたせいですわ。絶対そうよ」
「魔神が相手ならともかく、三柱神ならお手上げだよな」
「もう一生謝って過ごすしかないのかしら。いっそ出家なさったら」
「猫僧侶? 死んだら素敵な御神体になりそうだね」
「でもあたし、このままの兄上でもいいと思うわ」
「そうだね。心配しないで兄さん、僕らが美味しい魚を食わせてあげるから」
「それより、ちょっと撫でさせてくださいな」
「おにーちゃま、かわいい」
苛々してしまって、イフティシャームは弟妹を怒鳴る前に盛んに毛繕いをしました。それがまた好評で、特に末の妹などは手を叩いてはしゃぎまわる始末。怒りが枯れた花のように萎んでゆき、情けなくなってしまった第二王子でしたが、姉姫が「なら、次王はリドワーンね。あの子は秀才だし、きっと立派な王様になるわ。みんな、それでいい?」と採決を取り始めてしまったので、大慌てで尻尾を振り回しました。ジニーの後ろから飛び出して、威嚇するように怒鳴ります。
「冗談じゃない! 猫が王様になっちゃいけないなんて法は無いぞ」
「あら、だって」と姉姫が菫色の瞳を細めました。
「彼は王の長男であるにも関わらず、母が第ニ妃だというだけの理由で、後から産まれた第一妃の息子である貴方よりも王位継承位が低いのよ。血筋を重視するならば、純粋に王の長男として第一王位継承権を与えられるべきなのに。だからこの国は遅れてるというのです。単純に物事を捉える力が不足しているわ。まあ、それは置いておいて、単純に考えて、猫が王様だなんて在り得ません。諸外国に笑われてしまいます」
「実の弟になんて言いざまだ、姉上。そこまで俺を王にしたくないのか!」
「私は物事を単純に捉えているだけです。女王の存在する国なら、私が王になったでしょうね」
そういって微笑む姉姫に、イフティシャームは背筋が凍る思いがしました。父母を共にする姉弟でありながら、彼女はどちらかといえばリドワーンに似た人間です。正義漢で、理論的にものを考える上に、女性特有の直感に優れ、どう考えてもイフティシャームには太刀打ち出来ません。彼女がリドワーンに加勢すれば、海を割って渡るほうが、彼等に勝つことよりは簡単に思われます。
リドワーンははみ出すほどの鳩を頭と肩に乗っけて、笑っています。彼の飼い犬がちぎれんばかりに尻尾をふり、彼に負けず劣らずの笑顔でぐるぐると主の周囲を回っています。兄のその笑みが自分に向けられている気がしたので、イフティシャームは毛を逆立てて吼えました。にゃー。
「分かった、じゃあ単純に考えよう。俺が人間に戻りゃあいいんだろ? 簡単じゃないか! そしたら全部解決、今まで通りの生活に戻れるし俺も次王になれる。そうだろ?」
「まあ、王として必要なのは、あと強いて挙げれば妻を娶ることくらいですけども。とにかく、人間に戻れそうなの?」
「戻るさ、絶対に。俺ひとりの力で」
気炎を吐くシャム猫に、姉姫は腕組みをして眉を寄せました。背後に立つジニーと猫を見比べ、魔神が何も口を挟まないところを見て、彼女にもどうする事も出来ない魔法なのだと判断したようでした。
「魔法は、基本的にかけた者にしか解けないと聞きますから、貴方に魔法をかけた相手を探すのがいいでしょう。そして説得するなり、引っ掻くなりして、元に戻してもらいなさい」
そう言って、豊かな黒い髪をまとめ上げていた赤いリボンを解き、イフティシャームの首に飾りました。灰色のふかふかの胸元に、絹の赤いリボンがとてもよく映えます。彼はおしゃれが好きだったので、この首飾りがとても気に入りました。しかし、リドワーンが、
「これで民に野良と間違えて攫われて、楽器の皮にされることも無いだろう。ジニー、後はよろしく頼むよ」
と柔らかく微笑んだので、途端に雨季の夕暮れのように機嫌を悪くしました。
「ジニーなんかいらない。誰がこいつなんか頼るもんか、俺は一人でこの魔法をかけた奴を探し出すんだ」
髭を前に向けて苛立たしく言っても、誰も彼の言葉に賛成してくれません。人間嫌いのジニーが今までの沈黙を破って、急に楽しそうに頷いたからです。そしてあろうことかイフティシャームの首の皮をつまみ上げ、それから柔らかで暖かい脇の下に両手を入れて、彼の菫色の瞳を正面から見つめます。
「そうか、私が主人で、お前がペットか。いいな、それは楽しいな。ちゃんと世話してやるぞ、王子」
「うるさい黙れ色白魔神! ああ、こんなぶざまなことになるなら、違う願いを叶えて貰うんだった! お前を解放なんかするんじゃなかった!」
「どこへ行きたい? どこにでも連れてってやるぞ、遠慮なく言え」
「そんな猫撫で声初めて聞いたぞ! 下ろせ、やめろ、尻尾を触るな、離せえ!」
普段とは打って変わった意地悪なほどあからさまな態度で体中を撫で回す魔神に連れられ、イフティシャームは無念な退場を強いられます。いくら体を捻ってもジニーは彼女のペットを放そうとはせず、その白い肌に爪で引っ掻くのもとても気が引けたので、王子は最後には喉の奥でぐるぐる唸るだけになりました。背後から兄弟達の声援が聞こえます。
「頑張ってらっしゃい、イフティシャーム!」姉姫の声は特によく通ります。幼い我が子がやんちゃ盛りなので、大声で叱ることに慣れているからです。「宝物庫から魔法の絨毯を持って行きなさい、そんなちっちゃな足じゃすぐ疲れちゃうわよ!」
「うるさいな、分かってるよ!」
ぐるぐる呟きながら、しかし彼は魔法の絨毯の存在を全く忘れていました。姉姫に感謝すべきなのですが、そんなことをしたら負けのような気がしたので、あくまで自分は最初から魔法の絨毯を持って行くつもりでいたことにしました。ジニーに促すと、彼女は分かったと言って、宝物庫へ向かいました。彼女に抱き上げられるのはやはり居心地が悪く、どうにも我慢しがたいものがありましたので、宝物庫に辿り着いてジニーが彼を地面に下ろした時、彼は心底ほっとしました。
イフティシャームは腰を床に落とし、長い尻尾をゆるやかに身体に巻きつけ、小さな黒い綿花のような両手を揃えて、隣で宝物庫の扉を見つめるジニーを見上げます。
「とりあえず、最初は街の占いばあさんのところへ行こうと思う。ばあさんは母上の知り合いで、すごく腕の良い占師なんだ。俺が生まれる日をばっちり当てたのもばあさんだけだった。ばあさんちまで魔法の絨毯でひとっ飛び、それでこの魔法をかけた不逞のやからの在り処を占ってもらう」
「本当に当たるのか? もしかしてそのばあさん、お前がいずれ謙虚で穏和で心優しい王様になるって占いもしたんじゃないか?」
ジニーが憮然とした表情でそう言ったので、イフティシャームは驚いて頷きました。「その通り。よく分かったな」
魔神は涼しい表情で宝物庫の扉に手をかけました。鍵がかかっていたのですが、彼女が指先で宙をひと撫ですると、金属の重い音がして、いかめしい扉はこころよく開錠します。
「分かるさ。お前の名前の理由も、それから、そのばあさんがあまり信用できない腕だということも。待ってろ、絨毯を連れてくる」
彼女が暗い宝物庫の中に消え、それからすぐに出てきてまたどこかへ行ってしまう間、イフティシャームは彼女の言葉の意味を考えました。父王は、第二王子が穏和で謙虚な人柄の人間に育つよう願いを込めて、イフティシャームという名前をつけたのですが、何の因果か、彼はまるで反発するように名前とは正反対の人間に育っていったのでした。彼を指して正に名前負けとはこの事だ、とは三番目の王子の評価ですし、歴史上最も揶揄に満ちた霊感溢れる命名、とはニ番目の姫の評価です。当の本人は彼等の評価に納得するものの、そんなのは自分のせいでは無いのだから、名前のことを出されるといつもむっとします。
ですので、どんなに良く解釈しても、やはり王子はジニーに馬鹿にされたのでした。
王子が延々と名前にたいする憤懣に耳を倒したり起こしたりしすることに夢中になっている間に、宝物庫の裏手からジニーが戻ってきました。絨毯はついて来ていません。イフティシャームが首を傾げると、「嫌なんだって」とジニーが淡々と告げます。「体を干してる最中だから、邪魔しないでくれって」
「あのぼろ雑巾!」
もうこれで何度目か数えることも厭になるくらい、体中の毛を針みたいにして猫が怒鳴りました。

