ばあさんがもう一度水晶を撫で、目と鼻の先にくっつけて中身を覗きこんでいる間、イフティシャームは後ろ足で顎の下をかりかり掻きました。赤いリボンはおしゃれで素敵なのですが、どうも首周りが蒸れていけません。とは言え、取ってしまったら本当に楽器職人に連れ去られて皮を剥がれるかもしれません。そんな事を考えながら、ついでに耳の後ろも掻いていた時、パンの香りが暗い紅色の天蓋の外側からふんわりと漂ってきました。朝から何も食べていなかったので、王子の足は意思とは無関係にふらふらとその香りを求めて天蓋の外へと向かいました。
 雑然とした路地裏の土に肉球が触れた時、遥か上の狭い蒼穹の光が彼の銀とも灰ともつかない額に落ちてきます。その青い光が不意にさえぎられたかと思うと、白い手が茶色いパンを彼の頭に置きました。温かく、豊かな実りと炎神の恵みを芳醇に満たした、柔らかそうなパンでした。路地裏のどこかの天蓋の人が、ジニーに捧げたものでしょう。
 ジニーが隣で地面に腰を下ろし、猫を横目に見下ろして自分のパンを齧ったので、猫も黙って頭の食べ物を地面に落として噛み千切ります。甘い芳香が口蓋と鼻腔を満たし、イフティシャームは目を糸のように細めました。王宮で食べるものはもっと繊細で上品な味でしたので、このように素朴で大味で、大地の神々の恵みを無遠慮に教えてくれるものは久しぶりでした。
「魔神も、ものを食べるんだな」
 猫が口の周りをぺろりと舐め、地面のパンを左手で押さえながら言うと、ジニーはつんと細い顎をそっぽに向けました。そのまま、ぽんと両手でパンを叩くと、それは芳しい香りを放つ綿毛になり、頭上の細い青色むけて飛んでゆきます。それからジニー淡い薔薇色の唇を開き、意地悪そうに続けます。
「ふん。酒だって飲めるぞ。お前のほうこそ、ますます獣らしくなってきたじゃないか。その姿を見て、お前を王子様だなんて思うやつはいないだろうな」
「機転が利くんだよ、俺は! 猫が喋って偉そうにしてたら誰だってびっくりするだろ。猫なんだから、無念でも猫らしくしたほうが上手く物事は運ぶってもんだ」
「知ってたんだな、自分が偉そうだって。今もじゅうぶんに偉そうだけど」
「お前にだけは言われたくない!」
 声を押し殺して叫ぶと、ジニーは相変わらずの冷たい目でイフティシャームを見下ろし、やにわに白く華奢な――猫にとっては大きな――手でシャム猫の頭を乱暴に撫で回しました。イフティシャームが耳を伏せ、目を白黒させて体を強張らせるのを見て、ますます意地悪に手の力を強めます。
「ふふ」
 イフティシャームは我が耳を疑いました。その瞬間、「結果が出たよ、王子」と天蓋の中から柔らかいしわがれ声が背中に投げかけられ、白い手はぱっと引っ込みます。
 猫は急いで飛びのいて魔神の顔を見ますが、その横顔はとうに遠くの雑踏に霞む路地裏の天蓋の七色に定められていました。興味深げでもなく、つまらなそうでもなく、ただ平淡な瞳で黒い髪の人々を横から横へと流す彼女は、天蓋の中にだけは絶対に入るつもりはなさそうでした。
「王子、どうするんだい、聞きたいのか聞きたくないのか」
 イフティシャームは遠くを眺める銀の魔神の横顔に視線を釘付けにしたまま、曖昧に返事をして天蓋の中へと戻りました。気のせいだったかな、と首を傾げます。ジニーが優しく微笑んだような気がしたのですが。
「教えてくれ」と水晶の隣に飛び上がって、猫は占いばあさんの黒い目をまじまじと覗き込みます。
「ここから西に十里、岩の森のちょうど真ん中あたり。そこに、お前さんを猫にした張本人がいる」
「岩の森? 砂漠の石灰岩の彫像群のことか? あんなの、人が何かをするようなところじゃないぞ。なんせ足場は悪くて、風も強くて、何も無いんだから」
「だからこそじゃないのかい? 悪だくみをするにはもってこいさ」
 猫は黒い綿毛のような右手を舐めながら考えました。西に十里とは意外と遠いものです。そして岩の森とは石灰岩が砂と風に削られて針葉樹のようになって佇んでいる、無人の荒野のことです。砂漠の真ん中にある何も無い場所なので、誰かが未明に王子に魔法をかけ、そして今も未だそこを動いていないとはどうも考え辛いのですが――。
「今現在の犯人の場所を占ったんだよ、あたしは」
 ばあさんがイフティシャームの考えを悟り、忠告するように告げます。彼は右手を口元から離し、とにかく急いでそこに向かうことにしました。何かを考えるより行動するほうがずっと得意ですし、そのほうが良い結果を招くことが多いことを知っていましたから。
「分かった、行ってみるよ。ありがとう」
「ああ、あともう一つ。若い男が見えるね。どうも、悔しがっているか……憎んでいるか……そんな心が見える」
「そいつが俺に、猫になる魔法をかけたんだな?」
「普通に考えるとそうだろうね」
 イフティシャームは再度ばあさんに礼を言うと、天蓋を飛び出して路地裏を駆け出しました。行き交う人々の褐色の足をくぐりぬけてマリオの元へと辿り着くと、思い切り飛び上がって鞍に爪をひっかけ、それでもマリオが余りに立派なラクダである為に鞍の上まで跳躍力が足りず、宙ぶらりんになりました。悪態を吐きながら必死に鞍に這い上がろうとしている間に、首の後ろをつまみ上げられ、そのままひょいと高い鞍の上に安置されます。いきなり天蓋を飛び出して疾走したシャム猫を追いかけてきたジニーでした。彼女はふわりと浮かび上がってイフティシャームの後ろにあぐらをかき、ぼんやりと地面を眺めていたマリオの尻を叩きました。
「こりゃ、あねさん、あにさん、一体いつお戻りに?」
 口をくちゃくちゃしながら異様な早口で言うマリオは、性格や口調とは裏腹に、随分と背中の重しに対して鈍感なようでした。
「西の砂漠を十里、岩の森へ行く。場所は知ってるな、ミシュアル?」
「マリオです、あにさん」
 マリオはゆっくりと足を出し、やがて大袈裟に揺れながら街道をまっすぐ進み始めました。イフティシャームは今度は香箱を組まず、鞍に爪を立てたまま腰だけを下ろし、凛と前を見据えます。ばあさんの見た男のことで頭がいっぱいでした。彼自身は誰かに怨みを買った覚えは無いのですが、王子であるというだけでどこかの誰かの気分を害することはきっとあるはずです。でも、それでも、こんな魔法をかけられる謂れはありません。
「見つけたら絶対とっちめてやる」
 ぐるぐる唸る猫に、ジニーが憮然とした声をかけました。
「岩の森なんて、何も無いじゃないか。本当に信じてるのか、あのばあさんのこと? 骨折り損のくたびれ儲けだと思うけどな」
「うるさいな、王子の俺が言うんだから信じろよ」
「あのばあさんは当たらない。行くだけ無駄だ」
 そう言ったきり、ジニーは口をつぐみました。よほど魔法使いのことが嫌いのようで、信じたくも無いようです。しかし銀の魔神のくそ生意気な態度はいつものことだったので、イフティシャームは、むしろそれだけ不信を持ちながらも付き合ってくれる今日の彼女に感謝したくらいでした。猫になって良かった点といえば、彼女が春風の体重ほどには優しくなってくれた事に尽きます。
 十里はやはり長いものでした。
 マリオが早足で歩いてくれているのは分かりますが、それでも春の太陽神のじりじりとした白い光がイフティシャームの毛皮を温め、時間が経つごとにどんどん熱くなってきます。周りを見渡しても一面の砂だらけで、遠くには蜃気楼がオアシスを浮かび上がらせていました。砂が舞い上がって彼の美しい毛並みの合間に入り込むのにうんざりしてきた頃、ジニーが魔法で花びらで出来た銀色の日傘を取り出し、影を作ってくれたので、なんとか一息つくことが出来ました。
 やがて前方の砂と低い蒼穹の間に、白い木々が姿を現し始めます。白い木々は石灰岩で、風に削られて尖った樹のように歪な姿となったものでした。樹というにはあまりにとげとげしく、強気で、無慈悲なものでしたが、それでもやはりそれは岩の樹なのでした。
 砂が風の呼び声に答えてさらさら鳴きますが、後には何一つ聞こえない静寂の荒野です。マリオに揺られ、二人は石灰岩の岩陰へと入り込みました。石灰岩の樹はマリオに乗ったジニーよりももう一回り高く、太陽神の強い恵みを遮って大地に影を落とします。
 ジニーはマリオを停め、イフティシャームを抱き上げて岩の森に降り立ちました。地面もいまや砂ではなく、固く白い骨のような石灰岩でした。
「それで、どうするって?」
 静かに訊ねるジニーの腕をすり抜け地面に降りたイフティシャームは、その菫色の宝玉のような瞳の中の瞳孔を広げつつ、静寂に支配された岩の森を眺めます。それなりに広い場所なので、一見しただけで全てを見通すことは出来そうもありません。犯人の魔法使いが巨大な石灰岩の樹の陰に隠れている可能性もあります。ここから一瞥しただけでも、怪しそうな白い樹は六つ七つありました。
「向こう側まで行って、誰かが隠れていないか探す。もし相手を見つけたら、ジニー、魔法で捕まえてくれよ。マリオは俺達が帰ってくるまで、ここで静かに待ってるんだ」
「がってんだ」
 素早く地面に唾を吐き、膝を折って腰を下ろすラクダ。イフティシャームは魔神に先立ち、小さな黒い四肢をちょこちょこ動かして石灰岩から石灰岩へと線を結ぶように歩きました。相手がどこに潜んでいるか知れない以上、とりあえず隠れながら進むほうが得策だと考えたのです。猫の耳や鼻を懸命に動かし、白い岩を風に乗った砂が撫でて過ぎる音の中に何か違和感がないかと探ると、微かに奇妙な香りが途切れ途切れに漂っている気がしました。しかし、それが何なのか彼には分かりません。人間であった頃は嗅ぐことの出来なかった微細な匂いを、猫になって初めて感じたのです。
 イフティシャームはその僅かな匂いを手がかりに、岩の森を縦断しました。やがて胡粉色の樹々が消滅し、眼前に見慣れた砂の地平線とゆらめく陽炎と低い蒼穹が現れた時、猫は後ろを振り返りました。
「そらみろ」と銀の魔神が腰に手を当てて言います。「誰もいなかったじゃないか」
 ジニーの言う通り、誰もいませんでした。ばあさんの占いが外れたことなど一度も――少なくともイフティシャームが知る数少ない例の中では――無かったのに。王子は尻尾を一振りして奮起すると、噛み締めるように言います。
「もう一度見て歩く。きっとどこかに見落としがあるんだ。俺をこんな格好にしたやつは、絶対にここにいるはずだ」
「いないと言ってるだろう。あの魔法使いのばあさんは嘘つきだ、当たるもんか」
 そっけない言葉に、イフティシャームは思わずジニーを見上げました。
「うるさいな、そんなに信用できないならどうしてのこのこついてきた? 俺をつまみあげて街に戻れば良かっただろ? わざわざ十里も、あの変なラクダに揺られずに!」
「王子が行くって言うからじゃないか!」
「だったら黙って信じろよ!」
「信じない! 犯人なんかいるはずない!」
 顔を近づけて怒鳴りあっていたその時、大きな羽音がしました。それと同時に黒い影が頭上から襲い掛かってきて、二人は咄嗟に身をかがめて頭を伏せます。ジニーが非難がましい小さな叫び声を上げ、両手を振り回すと、黒い影の鷹は翼を羽ばたかせながら中空に飛び立ち、そして二人の背後に佇む者の元へと戻って行きます。
「誰だ!」
 影の鷹の強襲から立ち直ったイフティシャームが振り返りざま叫びました。
 リドワーンがよくそうするように、鷹を左肩に乗せてそこに立っていたのは、路地裏で灰色の天蓋の後ろからジニーを凝視していた青年でした。彼はあの時と同じ瞳で、じっと魔神を見つめています。憎しみとも怒りとも歓びともとれない、不思議な光を持つ視線です。
 その手には銀のランプが握られていました。彼の影の鷹が、ジニーの腰から奪い取ったのです。
「久しぶりだね」
 青年が微かに微笑みながら言いました。少し掠れた小さなものでしたが、聞く者の注意を一瞬で集めてしまうような、異様な力が込められた声音です。猫がぐるぐる唸り、魔神に合図を送りました。しかしジニーは動きません。困惑するように、ためらうように、呆然と青年を見つめています。その不安そうな顔を見て、イフティシャームは不吉な気分になりました。くそ生意気な銀の魔神のこんな顔は、一度だって見たことありません。
 青年が銀のランプを優しく撫でながら、先ほどよりももっと低く、力の入った声で言いました。
「ずっと探してたんだ。逢いたかったよ、僕のジニー」