「何してるんだ、ジニー、そいつが魔法使いだ! 捕まえろ!」
シャム猫の叫び声に、ジニーははっとしたように体を揺らします。そしてさっと右手を上げてその白い指先を青年に向け、魔法で彼の体をがんじがらめにしようとしました。しかし彼女の放った魔法は、青年に届く前に、まるで黒インクが水に溶けるように分解し空へと流れてしまいました。ジニーは青年の持っている銀のランプを見据えて、悔しそうに唇を噛みます。
「ランプが――私の加護が」
銀のランプは、大魔神によって作り出された、ジニーを封じたジニー自身の魔法の塊。魔神は自分自身を攻撃できません。魔神の持ちうる最大の加護が、今、あの青年の下に渡り、ジニーの攻撃を認めなかったのです。
「主になるということは、ランプを持つということは、そういうことだ。ジニー、君は第二王子によって解放され、ランプを自分自身で持つことができるようになったようだけど」
朱色の瞳に骨色の地面を映し、青年は微笑みます。
「解放される前の主の願いは、まだ果たされていないよ。一年前に盗人に君を奪われた時は、本当に死ぬかと思ったほど悲しんだものだけど――君を偶然拾ってくれた第二王子に感謝すべきだな。銀の髪に白い肌の魔神が王宮付きになったという一報は、この国にいればどの場所にだって一昼夜で駆け巡ったから」
そう言って、青年は慈しむように銀のランプに視線を落とします。夜に横たわる月神のように、それは青空と白い大地を反射してきらきらと輝きました。
イフティシャームは呆然としたまま、相手とジニーを見比べます。青年はさきほどから猫には一瞥もくれず、ジニーについての興味しか持ち合わせていないようでした。どうやら、とイフティシャームはぐるぐる唸りながら考えました。犯人である青年の目的はジニーと逢うことで、王子を猫にしたのは彼女を呼び出すためのただの囮だったのだと。
「おい、お前は誰だ? ジニーの何なんだ? 目的は?」
王子が毛を逆立てながら叫ぶと、青年は面白そうに猫を見て、それから嘲るように控えめな笑みを浮かべます。
「そいつ、君のペットとしてはまあまあじゃないか、ジニー? 少し頭が悪そうなのが難点だけどね。君にはもっと狡知な配下が相応しい」
「うるさい、この鳥頭! 名を名乗れ!」
「猫のお前に言われたくないね。まあ、良いよ。僕の名はガイス――銀の魔神の、ひとつ前で初めての主人さ」
イフティシャームは驚いて目を見開きました。急いで隣のジニーを見上げると、彼女は顔を青くしてガイスを凝視し、困惑に導かれるままに白い手を胸元で彷徨わせています。シャム猫が自分を見上げていることに気付くと、一瞬だけ淡い薔薇色の瞳を揺らがせて猫の菫の虹彩を一瞥し、そしてもう一度ガイスを見つめます。彼女は逡巡するように胸元の右手を前へと突き出し、つとめて静かな声で言いました。
「返せ。私のランプだ」
「違うよ、ジニー。僕のランプだ。僕は君の主人だ」
「私は……もう、ランプの魔神じゃない。素性を忘れた、ただの魔神だ」
ガイスの肩に乗っていた大きな鳥が雄たけびをあげて中空に舞い上がりました。そのまま漆黒の影は砲丸のようにジニーに向かって突き進み、銀の魔神の胸を穿ちます。ジニーは小さな悲鳴と共に弾き飛ばされ、岩の樹の根元に尻餅をつきます。影となった鳥の闇色の痕跡が、銀の魔神の白い肌に古びた蜘蛛の巣のように染みていました。
それを見た瞬間、イフティシャームは毛を逆立ててガイスに飛び掛りました。魔法使いの肩にはいつのまにか影が戻り、もう一度鳥となって猫を襲います。思うさま吹っ飛ばされた猫は、ジニーの近くにころころ転がって呻き声をあげます。「悲しくなるよ、ジニー」ガイスが呟きました。
「僕は君を呼び出した。それなのに、君は僕の願いを叶えない。そのうえ第二王子に解放されてからは、僕のことなんかすっかり忘れて好きに生きてる。悲しくなるよ、ジニー。ジニー。ジニー。僕がどれだけ君のことを愛してるか、知っているくせに」
魔神は俯きました。その相貌があまりに罪悪感に満ちていたので、イフティシャームは地面に転がったまま、小さな歯を剥きました。
「お前の願いは叶えられないと、言っただろう」ジニーが呟きました。
「そんなことは無い」
「努力した。でも、どうしても無理だった!」
「君は君に課せられた義務さえ果たせないような無能なのかい? 君が人間を、魔法使いを憎んでいるのはどうでもいい。君は、君の存在意義さえ満足に満たす事のできない、出来損ないの魔神だったってことか? 僕の心を踏みにじって、僕の心を玩んで――楽しいかい?」
「違う、そうじゃない! 私だって、魔神の誇りにかけて誰の願いでも叶えてみせたかった!」
「なら、誓え」
ガイスが暗い瞳で言いました。世界を覆う蒼穹でさえ、泰然とした太陽神でさえ、この骨の大地の上では傍観者に過ぎません。青年は褐色の腕をゆっくりと上げ、銀色の魔神を指差しました。まるで歌劇の主役のように、堂々と。
「僕だけを愛すと誓え。僕のそばにいると誓え。僕と共に生きると誓え。それが僕の願いだ、銀の魔神」
猫の瞳孔が針のように細くなりました。彼は、どこかでこれと同じものを見た気がしました。随分前のようでいて、すごく最近――そう、今朝目が覚めて、一番最初に捜し求めたもの――黒い姿見――そこに映っていたのは、小さな気高い獣でしたが――。
ジニーは唇を引き結び、平静を保つように努力しているようでした。けれど、銀のブレスレットがりんりんと微かに歌っています。銀の腕輪は、彼女の動揺を忠実に奏でるのでした。
「初めて銀のランプを見たのは、そう、この場所だった。懐かしいね」
朱の瞳の魔法使いが呟きました。ジニーの返事を待つ間の余興のように。
「僕だって魔法使いの端くれ、一目見てそれが魔神を封じたランプだと判った。中から現れた機嫌の悪い君を見て、僕はあっという間に好きになったよ。井戸の底に落ちていくみたいにね。そして僕は願った。君は困った顔で、時々癇癪を起こしながら、それでもずっと僕の傍にいてくれた。盗人にランプを盗まれる日まで。ねえ、ジニー。僕の願いは叶ったの? それとも、これから叶えてくれるの? ……だから誓え。君の誇りにかけて」
徐々に暗く、強くなってゆく語調の最後の言葉に、自尊心の強いジニーは動転したように眉を吊り上げました。眉を垂れたのかもしれません。イフティシャームには判りませんでした。こんな魔神の顔を見るのは初めてでしたから。
「できない。魔法で自分自身の心を変えるなんて――それに、それに、私は、愛するということがどういうことなのか、理解できない――私のなかには、憎しみの心しかない」
不可抗力とはいえガイスの手中から離れたことは、自分の義務を果たすことができず、あろうことかそれから逃げ出したのと同じことだと、ジニー自身は思っているようでした。目の前で渇望する前の主が出現したことは、彼女の負い目を強く強く刺激しました。駄目だろ、ジニー。猫は転がったまま、じっと魔神を見上げました。お前が気に病むことなんてない。そんな願いなら、なおさらだ。
「構わない」青年が差し出した手をほんの僅か上にあげ、噛み締めるように言いました。
「きっと変わる。だから僕の傍にいろ、ジニー」
「………いやだ」
魔神は押し殺した声で、ようよう呟きます。自分の義務と負い目に押し潰されるのを懸命に耐えるように。強い意志の篭った響きで。
「私がいなくなったら、王宮の皆が困る」
イフティシャームは瞳孔を少しだけ大きくし、その闇色に銀色の魔神の姿を精一杯に描きました。皆が困る。そうだ、ジニー、お前がいなくなったら。
砂の子供達が風に舞い上がって二人の服を撫で、どこか別の兄弟達のもとへと舞い降りた時、突然青年が哄笑をあげました。空虚で、揶揄に満ちた、けたたましい笑い声を。青い空をびりびりに破くように、不遜な笑い声を、ガイスは腹の底から響かせました。
「じゃあ良いよ、ジニー、君が僕以外に何も持たないように、持てないように! 君の物を、何もかも壊してやるから!」
怒れる魔法使いは、黒い魔法の鳥を十羽取り出し、宙に放ちました。暗雲が低い青空を隠し、漆黒を振るい、骨色の岩森を跳ねるように拡散します。前の主は、手始めにジニーと最初に出会ったこの場所と、彼女の従者の猫を壊すつもりでした。不機嫌なスコールのような黒い嵐が吹き荒れ、石灰岩の樹を削り落とし、ゆっくりとその刃でジニー達へと迫ります。銀の魔神は青年に対して魔法を使ったようですが、彼に届く前にすべて花びらになって風に舞ったり、光の泡沫となって四方八方へ弾けたりして、ランプの加護によってまったく防がれてしまいました。それを見て、「王子」とジニーが急いでイフティシャームを抱き上げようとします。攻撃を諦め、相手から守ることを、それも第二王子を最優先に守ることをとっさに決めた魔神の柔らかな体が緊張で硬くなっているのが分かった時、ついにイフティシャームは尻尾を倍の太さにして耳を伏せました。
「いい加減にしやがれ、この根暗! 自分勝手も大概にしろ! そんなんだから俺と違ってモテねえんだよ!!」
ジニーの腕を蹴って嵐吹きすさぶ骨色と漆黒の混じる大地に飛び降り、牙を剥いた肉食獣が激昂します。にゃー!
「ジニーを物みたいに言うな、ジニーは自由になったんだ! 俺が自由を願ったんだ! 文句があるなら俺に言え、愚民めが!!」
我が国の第二王子イフティシャームは大体やることがろくでもないと言われていますが、その中でも特に際立ってろくでもないのは、考えるのが苦手なわりに忍耐強い彼がついに堪忍袋の緒を切って飛び出す時のものであると言われています。例えば、好奇心に討ち負けて三柱神の頭までよじ登り家庭教師と僧侶数人を卒倒させた時のように。今が正に、その時でした。
この国で最も高貴なシャム猫は毛を砂まみれにしながら、そのしなやかで強靭な四肢を目にも留まらぬ速さで駆使し、あっという間に魔法使いの元へと疾走します。青年が唐突に激怒して突進してきた小さな猫に驚愕している隙に、イフティシャームは彼の服に素早く爪をひっかけ、その体の上を跳ねるようによじ登りました。マリオのときのような失敗はしません。魔法使いの胸元を蹴って宙へと躍り上がり、彼の眼前にまで達すると、思いっきりむき出しにした鉤爪の両手を思いっきり縦と横に振り回します。青年はぎゃっと悲鳴を上げて猫を払い落としました。姉姫に贈られた猫の赤絹のリボンがするどく空へと解けます。
魔法使いは顔を真っ赤にし、真紅の爪あとのついた顔を抑える手の隙間から怒りに燃える朱の瞳を猫に向けます。呼応するように黒い闇の刃が荒れ狂いました。
「獣め、殺してやる!」
「上等じゃねえか、やってみろ!」
対峙する青年と猫の間に剣のような闇色の鳥が舞い上がり、怒りのせいで倍に膨れ上がった猫めがけて襲い掛かります。
「よせ! ガイス!!」
ジニーが叫びました。銀色の花びらのような光が彼女の体から輪のように広がり、魔神の加護も忘れて彼女は青年の魔法を殲滅するために強い魔法を放ちます。
黒と銀の嵐がぶつかり合い、その凄まじい力に耐え切れず壊れたのは三人のうちの誰でもありませんでした。彼らの周囲の岩の樹が崩れ、大地に落ち、そしてその衝撃は地面にも伝わります。頭に血の昇った三人は、奈落へと崩壊し落ちてゆく白い大地に飲み込まれ、あっという間に地上から姿を消してしまいました。

