イフティシャームは自分が死んだとばかり思っていました。突然体が浮き、視界が真っ暗になったかと思えば、体のどこを打ちのめされたとも分からない痛みが全身を貫き、それきり手足を動かせなくなったからです。ああ、くそ、とイフティシャームは惰性と痛みに体を横たえたまま考えました。あの自分勝手な魔法使いに猫にされたまま人間に戻れず、王にもなれず、姉に嘲笑され、兄に王位を奪われ、ガイスは勝ち、ジニーは負い目を感じたままで、自分はこんなところでぼろ雑巾みたいに死んでしまうなんて。第二王子の死に方としては、あんまりじゃないか? 先人達は偉大だと思いました。彼らのほとんどは望まなかったこととはいえ、この与えられた死を乗り越え神々の元へと往ったのですから。
 死は温かいものでした。お腹のあたりがほっこりと温く、まるで朝の慈愛に満ち溢れた太陽神のもとで仰向けに昼寝をしたようです。その温かさを感じていると、段々と穏やかな気持ちになってきます。
「温かいぼろ雑巾になって死ぬのも、まあ、悪くないのかな」
 そう夢心地に呟いた瞬間、思い切り地面から宙へと跳ね飛ばされ、再び垂直に落ちて体が鞠のように弾みました。びっくりして飛び起き、尻尾を真っ直ぐ上にあげて体を弓なりにすると、周囲は未だ真っ暗でした。ただし、はるか天井にぽっかり開いた穴が青い色をしていて、そこから昼過ぎの光が猫の上に舞い降りてきます。イフティシャームは自分がどこにいたのか、やっと気付きました。
「ぼろぞ……絨毯!」
 真紅と紫に金糸の刺繍が映える、古めかしく大きな絨毯が猫の真下にありました。絨毯はゆるやかに振動すると、猫の先ほどの暴言について遺憾の意を表明します。
「ああ、違うんだ、ぼろ雑巾ってのは俺のことで……。それより、よくここが分かったな。日干しは終わったのか?」
 空飛ぶ魔法の絨毯は体を波立たせ、時々猫を弾ませながら、楽しそうに何かを伝えようとします。猫は揺れながら真顔でそれを見下ろしていましたが、やはり彼が何を言っているのかさっぱり分かりません。どうやら体がいい具合に温まったから王子を追っかけてきて、たまたま猫が地下に落ちてゆくところに出くわし、急いで自分の体で受け止めてやった、というような感じですが、正確な解釈は分かりません。ジニーなら彼の言いたいことがすぐに理解できるのですが。
「そうだ、ジニー! ジニーは? 魔法使いは?」
 猫が大慌てで周囲を見回したその時、背後で呻き声が聞こえました。急いで振り向くと、はたして、イフティシャームの後ろではガイスが絨毯に伏せっていました。猫にひっかれた痛々しい傷以外には特に怪我も無いようです。しかし、銀の魔神の姿はありません。
「なんでジニーじゃなくてこんな奴を助けたんだ? 役立たずのぼろ雑巾、全部ほどいて糸にしてやろうか!」
 爪を立ててがりがりと絨毯をひっかくと、彼は驚いて身をよじり、その反動で猫と魔法使いは地面に落っことされました。地面は意外とすぐ近くにあり、二人の叫び声は小さなもので済みました。そんなことより、イフティシャームは地面が冷たく湿っていたことに驚きました。光の下で目を凝らすと、なんと水溜りのようなごく浅い川が流れる、石灰岩の地価洞窟のようです。右手が浅い水に漬かり、彼はぴるぴると水をはねながら周りの様子を見渡しました。
 暗く、広い、水脈のある白い洞窟です。砂漠であるのに、地下はこんなにも冷ややかでした。暗闇の中でも、そこここでほのかに白い壁が浮かび上がっていました。魔法のせいで開いた大穴以外にも、岩の森に沿ってところどころに小さな穴が開いているようで、細い太陽神の光線が恵みのように落ちて暗渠を照らしているのです。
 少し離れた場所に、その光線が一際多く、白い光が月神のように輝いている場所がありました。銀の魔神はそこにいました。こちらに背を向けて、じっとほのかな光に浮かび上がるものを見つめています。
 それは枯れた黒い樹でした。とうの昔に滅び、死んでしまった大きな樹の遺骸を、銀の魔神は微動だにせず凝視しています。
 猫も、そして魔法使いも、そんな彼女の後姿を戸惑いと共に注視します。どんな言葉も受け付けない、かたくなな悲哀が、ジニーの白い背中に宿っていたのです。
 やがてそっと足を忍ばせ、一歩ごとに本能で水をぴるぴるとはねながら川を渡り始めた猫は、ジニーがそっと地面に膝をつくのを見ました。
「思い出した」
 細い肩はかすかに震えていたようです。少なくとも、猫の目では、そう見えました。
「私の素性。魔神になる前の私。百年の暗闇の桜。……これは私の死体だ」
 ジニーの手はそっと枯れた黒い幹を撫でました。イフティシャームはジニーの背後に立ち、枯れた枝の樹を見上げます。桜。ぼろぼろに風化し、ジニーが撫でた場所から崩れ落ちてゆく、干からびた桜。ほんのわずかな光と水を頼りに、百年生きた、誰も知らない桜。
 桜の精は暗闇の中で静かに生まれ、そしてアディの大号令でランプに封じられ、そしていつか第二王子の元へとやって来るのでした。
 「見ろ、王子」自分の素性を取り戻したジニーは、歪んだ声で続けます。笑っているのか、泣いているのか、多分、その両方でした。
「私の子だ――」
 立ち上がって体を横にどけ、こちらを振り向くジニーの桜色の瞳は、湿っていました。彼女の指し示した枯れ木の根元を見ると、ほんの十輪あるかないかの、桜のつぼみがあります。大きな黒い枯れ木を見上げるように、凛と光に向かってまっすぐ背を伸ばすその花は、確かにジニーの遺骸から新しく繋がれた命でした。
 猫は岩の森で感じたかすかな芳香の正体に気付きました。小さな香り、命の香り、花の香り、それはこんな暗闇の中で確かに生きたジニーの匂いでした。
「王子、ちゃんと思い出したぞ。私は三流魔神じゃない、一流魔神だ」
「うん」
「しかも子供がいた。こんなところで、独りで目を覚まして、いつか独りで死ぬのに。それでも生きてるぞ、こいつ」
「うん」
「私みたいだな」
「……良かったな、ジニー」
「何が良いんだか」
 そう悪態をつきながら鼻をすする桜の精は、喜びと寂しさと誇りと悲しさと、色々な感情がごちゃ混ぜになった表情でかすかに微笑みます。彼女は自分の遺骸と、新しい命を見下ろしました。イフティシャームはその切なげな横顔に、自分の無力さを垣間見た気がしました。彼女は人間ではありません。人間を嫌う理由のある、気高く孤独な魔神です。その距離は遠く隔たれていて、きっと手を伸ばしても届かないでしょう。この丸っこくふわふわした黒い手でも、五本の長い指を持つ褐色の手でも。
「――王子って?」
 不意に愕然とした声が背後から投げかけられました。顔に三本線の十字傷をつけたガイスが、すっかり怒りをくじかれた様子で二人を凝視しています。「はあ?」とイフティシャームは右の髭を思い切りねじって上げて見せました。
「すっかり忘れてた、俺はそもそもお前に痛い目みせるためにわざわざここまで来たんだった。おい根暗、とっとと魔法を解け。今ならこてんぱんにする程度で許してやるぞ」
「何のことだ? 僕の魔法がなんだって?」
「とぼけんな、ネタは上がってんだ。お前が俺に魔法をかけて、猫の姿にして、ずっとここに潜んでたってことをな!」
「何を言ってるんだ、頭の悪い猫。僕にそんな魔法は使えない。それに、ここに来たのはお前達の後をつけたからで、潜むだなんてとんでもない。僕は街にいたんだから。……それより、王子って、何だ?」
 憮然とした表情のガイスに、猫はゆっくりと髭を垂れました。そしてしばらく考えたのちに、つっかえながら呟きます。
「……待てよ、話が見えない。じゃあお前は俺に変身の魔法を使ってないってこと? つまり占いばあさんが外れたってことか? 俺にイフティシャームって名前をつけたのも、もしかして、全部全部でたらめ占いだったってことなのか?」
 その言葉の後、唐突に沈黙と静寂が仲良く腕を組んでこの場を駆け抜けます。彼らが走り去った後、イフティシャームとガイスはほとんど同時に叫びました。
「イフティシャームって、じゃあまさか、お前が第二王子? ジニーを解放した、第一王位継承権者の!」
「ちくしょう! 騙された! 俺どころか母上も父上もどいつもこいつも全部あのばあさんに騙された! 何が第二王子は謙虚で穏和な良い王様になるだ、めちゃくちゃ言いやがって!」
 ガイスはびっくりしすぎて砂に足元をとられ尻餅をつき、猫は盛んに毛並みを整えます。衝撃でした。色々なことが衝撃でした。子供のころから信じていた占い婆さんが嘘つきだったこと、魔法をかけた相手は分からずじまいだということ、イフティシャームという名前が本当にあても無い間違いだということ。濡れた手をしきりに噛みながら、猫は必死に混乱する頭をどうにか元に戻そうとしました。でも、朝からやってきたこと何もかもがだいたい無駄だったというのが分かったので、彼の戸惑いと焦りは留まることを知りません。手を噛み尽くしたので、必死に地面に爪をとぎ、肉球に砂がすりこまれるその時、「ばあさんは正しいぞ」と声が聞こえました。
 ぴたりと爪とぎを止め、王子はジニーを見ました。こちらに背を向けて彼女は枯れ木を緩やかに撫でています。
「何だって?」
「だから、ばあさんの占いは正しかった。それは認める」
「でも、だって、お前、あんなに嘘だって大騒ぎして……それに、ガイスは犯人じゃなかったって」
「だから」
 桜の魔神はゆっくりと振り向き、湿った目のまま、実に神妙に言いました。
「お前を猫にしたのは、私だ」