「………なにが?」
 シャム猫が菫色の瞳をまん丸に開き、首を傾げました。ぱちくりとまばたきをする彼から、ジニーは目を逸らします。
「今朝、寝てるお前を猫にしたのは私だ。言う機会を逃してしまったんだ、あんな大事になってしまって……まさか姉姫まで出てくるとは……お前も妙に犯人探しに乗り気だったし」
 イフティシャームはぽかんと口を半開きにし、赤い舌をしまい忘れたまま、相手の言葉の意味が理解できるまでじっと動かずにいました。ジニーもいつもの不貞腐れた表情ではなく、動揺や焦慮を無理矢理耐えるような相貌で洞窟のはるか向こうで地上から差し込む細い陽だまりの線を見つめています。彼女は負い目を感じている時、それを押し隠すのは苦手のようでした。
「ふ、ふ、ふ」猫は上手く舌を丸められず、何度か口を閉じたり開いたりした後で、ようやく毛を逆立てます。
「ふざけんな、この三流魔神! お前のいたずらでどれだけ俺が迷惑したと思ってるんだ!!」
 王子の怒声にジニーは一瞬びくりと体を揺らし、猫を一瞥し、そして再び顔を背けました。「だ、だって……」
「だって、なんだよ! もう怒った。ちゃんと言わない限りは俺はここを動かない。てこでも動かないぞ! さあ白状しろ、小娘!」
「だって……」
 ジニーは俯いたまま、唇を噛みました。猫の追求を逃れられるはずがないことを悟って、そして本気で怒っている猫と自分の行為に板ばさみの苦痛を感じているようでした。あの常に気丈で、偉そうな、強情魔神が、柔らかそうな桜色の唇が歪み、今にも泣き出しそうです。否、少女は泣いていました。透明の雫が淡い薔薇色の瞳からこぼれ落ち、それと同時に彼女は顔を上げて叫びます。
「お前が大っ嫌いだからだ!!」
 その怒りに満ちた激白に、イフティシャームは思わず耳を片方倒し、口も閉じます。人間嫌いの彼女の、余りにも意外な――いえ、ある意味でまっとうな言葉です。猫だましをくらった相手を見て、ジニーは畳みかけました。
「お前が嫌いなんだ! 人間より、魔法使いより、アディーより、ずっとずっとお前が嫌いだ! お前なんか一生猫でいればいい、死ぬまで私のペットでいればいい!」
 怒気をすっかり相手に奪われ呆気に取られていた猫が、ジニーが言葉を切る合間を縫って、彼女を宥めるようにできるだけ静かに問いかけます。激昂に激昂を重ねれば、先ほどみたいに地面に穴を開ける羽目になりかねません。
「待てよ、そんなに嫌う理由を教えてくれ。俺が何かしたか?」
「何もしてないから嫌いなんだ! 毎日毎日何も考えずに楽しそうに酒飲んで、お喋りして、それを見てると段々腹が立ってきたんだ! 私はちっとも楽しくなくて悔しいのに、いつも楽しそうなお前のことばっかり考えて、それが嫌で嫌でしょうがない! 私の中には、憎しみの心しかない!」
 ジニーはぽろぽろ涙を流しながら、両足を踏ん張って猫を睨みつけました。ああ、そうか、とイフティシャームは妙に落ち着いた気持ちでふと思いました。この子は、他の誰もが思ってた以上に、孤独だったのだと。百年の孤独、二十年の牢獄、そして一年の。
「お前を見てると胸がぎゅうぎゅうするんだ、気持ち悪くて痛くて苦しくて、だからお前が猫になれば……猫になってしまえば、少しは……」
 イフティシャームはようやく理解しました。
 この子は、他の誰もが思ってた以上に、普通の子だったのだと。
「だから私はお前が嫌いだ、嫌いだから猫にしてやったんだ、ざまあみろ! そのまま王にもなれず、妃も娶れず、猫のまま朽ち果てるがいい!」
「分かった」
 その言葉に、ジニーはきょとんとしました。まるで肩透かしをくらったような表情でした。猫は静かに続けます。
「帰ろう、ジニー。この場所はちゃんと第二王子の名の下に保護するから。お前の子が立派に育つまで、面倒をみるから。だから帰ろう」
 少女は猫を睨んでいましたが、やがて俯いて目を擦り、浅く頷きました。鼻をすする音が妙に子供っぽくて、もし猫が人間だったなら、苦笑とも微笑ともつかない顔をしていたでしょう。王子は後ろで座り込み、じっと足元を流れる清涼の小川を眺めていたガイスの元へと行きました。猫が目の前に座ると、青年はゆるゆると視線を上げます。
「お前も、色々思うところはあるだろうけど、もう良いだろ?」
 一瞬口を開きかけ、そしてまた閉じ、じっと熟考するように顔を歪め、それからガイスは再び口を開きました。ひどく静かな、冷たい声で。
「自惚れるな、王子。あんたは本当に頭が悪い。そんなあんたを選んだ女など、こちらから願い下げだ。僕の見る目が無かったってだけの話さ」
 青年は膝元の白い砂を掴み、猫にふりかけます。そして猫が反射的に後ろ退り、手で懸命に顔を撫で回す間に立ち上がり、はらはらと白い雨を降らせる輝ける大穴を見上げ、かすかな声で呟きました。
「僕が愛していたのは、彼女自身なのか、それとも誰かに愛される幸福だったのか――そんなことが分からないほど、僕も愚かだったなんて」
 ぺっと口の中に入った砂を吐き出すことに成功したイフティシャームが、ガイスを見上げて宥めるように柔らかい声音で言います。
「いつか宮殿に遊びに来いよ。酒なら毎晩浴びるほど振舞われてるからな」
「丁重にお断り申し上げるよ、シャム猫王子。あんたが赤いリボンを体に巻いて猫踊りを披露するなら考えても良いけどね。結局のところ、今日という一日の恵みは、僕らはお互い絶対に分かり合えないってのが判ったことに尽きる。僕にあんたの気持ちは分からないし、あんたにも僕の気持ちは分からないよ」
「解るよ。すごくよく解る」
 猫はぺろりと鼻の頭を舐めて、青年を見上げます。
「俺も、お前と同じ願いを叶えてもらおうとして、半日悩んだんだから」
 ガイスは初めて微笑みました。皮肉じみた嘲笑に近い笑みでしたが、それはイフティシャームが見た彼の笑顔の中で一番悲しく、そして穏やかなものでした。
「やはりあんたに僕の気持ちは解らないよ。――だって、彼女はあんたに恋してるじゃないか」
 黙ってもう一度鼻の頭を舐め、猫は頭上で漂っていた魔法の絨毯に飛び乗ります。猫に続いて絨毯に乗ったガイスとジニーを確認すると、絨毯はゆっくりと頭上の青い穴めがけて上昇してゆきます。地下洞窟から白い大地に昇りきるまで、ジニーは絨毯の端っこからずっと桜の遺骸とつぼみを見つめていました。
 めちゃくちゃに荒らされた岩の森の中心部は、もはやほとんど砂漠でした。風が砂を巻き上げ、さらさらと穴に降り注ぎます。できればここは塞がなくちゃな、とイフティシャームは思いました。このまま長い時が過ぎれば、ジニーの子が砂に埋もれてしまうからです。穴の隣に降りたガイスは、痛々しい猫の爪あとを抑えたまま、黙って絨毯を見上げます。右手に掴んだままのランプを絨毯の上に放り投げ、隅っこで俯いているジニーの背中に視線を送り、そしてゆっくりと街の方へと歩き始めます。もう二度と、絨毯を見上げようとはしませんでした。猫も彼から目を逸らして、彼の進む方へと先に絨毯を飛ばします。やがて岩の森の入り口でぼんやりと地面を見つめていたマリオを拾い、その重さに震えて不満を表明する絨毯を黙殺し、流れてゆく白い砂漠と青い空を眺めました。
「ところで、何をしに行きやしたんですか、あにさん?」
「散歩だよ」
「左様ですか」
 二人の間に流れる妙な気配に気を利かせたつもりのマリオは、それきり口をつぐんでくちゃくちゃと唾を噛み始めます。いい陽気でした。滑るように空中を飛ぶ絨毯の上では、照りつける太陽神の恵みも風にまぎれて柔らかいものとなります。シャム猫は香箱を組み、遠くの方で行商がゆっくりと街から遠ざかってゆくのを見ていた時、いつの間にか自分があぐらをかいていたことに気付きます。見下ろすと、夜着のままでしたが、黒く丸かった手は逞しい褐色の青年のものに、短くちょこちょこ動いた脚は長く力強いものに、柔らかくふさふさだった体は毛が無く硬い人間のものに戻っていました。
 人間に戻ったイフティシャームは、銀の魔神を振り返ります。
「良いのか?」
「知らない。気まぐれだ。お前が人間に戻らないと、お前の兄弟がうるさいだろうし」
 ぶつぶつと聞き取り辛い声で、こちらに背を向けたままジニーが返します。イフティシャームはその白い背中から視線を外さず、「ありがとう」と言いました。
「お前、馬鹿だな。なんでお礼なんかするんだ。怒れよ」
「さっき怒ったからいい」
「ちゃんと怒れよ」
「いいって。こっち向けよ」
「断る。お前を見ると胸がぎゅうぎゅうするからいやだ」
 イフティシャームは沈黙しました。こんなに訳の分からない女の子は初めてです。これで未だに王子のことを嫌いだと言い張っているのですから。嫌いだと確信しているのですから。
 王子は絨毯のうえで膝を擦り、ジニーの元に寄って、呆れ声で言いました。
「今更なに言ってんだ、お前。自分が何したか忘れたのか? お前、俺のことを抱いて、撫でまわして、しまいには俺はお前の腕の中で寝たんだぞ」
「ち、違う! いや、違わないけど、でもあれはお前が」
 慌てて振り返った銀の魔神は、予想外にすぐ傍にあった青年の顔を見て、びっくりして顎を引きました。そして顔をわずかに歪め、手元へと視線を落とします。白い服の装飾を意味も無くいじる白い手は、その心を表すようにしきりに銀のブレスレットを鳴らしました。りんりん、りんりん。
「俺が猫だったから?」
「……そう」
 蚊の鳴くような声でこくりと頷くジニーの顔は、耳まで朱に染まっていました。きっと第二王子が嫌いだからでしょう。嫌いだから、王子が近くにいることが堪えようも無く嫌なのでしょう。「俺、酒宴の合間に抜け出して、夜風に当たるのが趣味なんだけど」と王子がもう一歩ジニーに近付いて言いました。
「お前さ、毎晩、塔の屋根から宴の様子をうかがってただろう」
「いや! その……違う、あんまりうるさいから、その、気になって」
「俺も気になってたんだよな。一年前から。どうしたら婚約目当てに行われる貴族達の酒の席に、宮殿付きの魔神を呼べるかなってずっと考えてた。でもあんまりいい案が浮かばなかった。俺、考えるの苦手だし」
 毎晩イフティシャームは夜風に当たるために外に出ました。一年じゅう十一色の花の咲き誇る中庭が、松明の茫洋とした温かい光に浮かび上がる中、誰かが探しに来るまでずっと佇んで風に当たっていることもありました。見上げると必ず目に入るのは、形を変えて夜空に佇む月神、そしてその下で漆黒の姿を凛とさらしている魔神の塔。その塔のてっぺんで、銀色に輝く小さなジニーが膝をかかえて地上を見下ろしている姿は、イフティシャームの最も見慣れたものでした。
「お前、酒飲めるんだよな?」
「たぶん……分からないけど、飲めると思う」
 王子の手が腰に回され、ジニーは肩を震わせて身を硬くします。マリオのわざとらしい鼻歌が聞こえましたが、二人はまったく無視しました。少女は恐る恐る顔をあげ、泣きそうな顔のまま、桜色の瞳にイフティシャームを映します。「だめだ」とかすれる声で呟きました。「胸が痛くて死にそうだ。やっぱりお前、大嫌いだ」
「俺もだよ」
 きつく服を握り締めるジニーの細い手に自分の手を重ねて、イフティシャームが生まれてから今までで一番真面目な相貌で囁きます。
「でも、俺はお前のことが嫌いじゃないけどな」
 胸がぎゅうぎゅうするせいで頬を朱に染めたジニーが、ぎゅっと瞼を閉じました。そのふっくらとした柔らかい桜色の唇に、自分の唇が重なった瞬間、イフティシャームは非常に懐かしく覚えのある感覚が自分の体中を貫くのを感じました。